起業の本質 ― みかみ

プロローグ

「そうかそうか、そうだよね三上くん。それはムカつくよね。」

5畳ほどの無機質な白色の蛍光灯に照らされる密室。もうどれくらい時間が経っただろう。目の前の男は田中という警察官。今僕は、任意同行で警察署に来ている。初めての事情聴取に戸惑っている僕に、田中が続けて質問をしてくる。

「それでさ、今回の件なんだけど、一体どういう話になっていたか聞かせてくれる?」

取り調べ室の厳かな雰囲気とは対照的に優しい態度の田中にすっかり緊張がほぐれていた。一度ゆっくり呼吸して慎重に質問に答える。

「一年前にとある投資案件に僕と仲間で投資しまして、その投資先だったのが大森さんだったんですね。ただ投資したは良いものの、全然お金が返ってこなくて、今回待ち合わせをして少しお話をしていたって感じです。」

この大森というのは僕がとある飲み会に参加した時に偶然出会った経営者と名乗る男だ。

大森と出会った当時の僕は学生起業をしていて、数百名の仲間を集めて物販や営業、その他様々な投資案件で大金を稼いでいた。

月に数千万円というお金が入っては投資で出ていき、豪遊して出ていき、とそんな生活をしていた当時の僕はその界隈では多少名前が知られている存在だった。

今になって思えば僕ほど狙いやすいターゲットもいなかったことだろう。

大学生で上京したて。たまたまビジネスが上手くいっただけのように見える無知なガキ。金を持っている情弱であったという意味で、プロの詐欺師が狙うにはとても都合がいい”カモ”だった。

大森は詐欺師だった。

思い返せば出会ったときからキナ臭い男だった。なんせ出会った当初は「田中」と名乗っていたのだから。

なぜ真っ当なビジネスをしている男が偽名を使わないといけない?そんな当然気づいて当たり前のことにすら当時の僕は気づけなかった。東大で「詐欺師の見分け方」という講義がなかったのが今になって強く悔やまれる。

出会ってから何回か会い、交友が深まってきたころ大森が突然持ちかけてきた投資案件があった。

なんてことはないポンジスキームだったが、まだ人を疑うということを知らなかった僕は少し考え、少額から投資をしてみることにした。

すると、その数か月後から「今月分の投資利益です!」と大森からお金が振り込まれてくる。これは良い投資先を見つけたぞ!そう思った。

「日ごろ一緒に遊んでる気のいい仲間たちにもこの儲け話に乗っからせてやろう。」

そう思い、共にビジネスをしていた幹部陣や末端作業に勤しむ子たちに投資案件の募集を募り、大森に1億円のお金を預けた。

これで僕だけじゃなく、仲間も潤うぞ。投資を決め、振り込みをした日、仲間たちと数か月後から始まる夢の”投資家生活”を祝い朝まで飲んだ僕は、確かに心が弾んでいた。

しかし、数か月後。

大きく脈打っていた期待はピシャリと止まり、代わりに背筋を凍らすような不安に襲われた。大森と連絡が取れなくなったのだ。

「やばい!やられた!!!」

咄嗟にそう思った。

いや、だがまだ判断するには早い。

もう少し様子を見てもいいのではないか。何かアクシデントがあったに違いない。僕だって連絡を1日2日返し忘れてしまうことだってあるし、きっと緊急の仕事が入ったんだ。そうに違いない。

そして数日後、大森からのメッセージ通知がスマホに届いた。文面には「すいません、今月分の投資利益なんですが、間に入っている業者のシステムエラーで止まってしまっているようで、少しお待ちください!」と書いてあった。

しかし、それからその会社のシステムエラーが直る日は永遠に来ないのであった︙。

詐欺に遭ってから勉強したことだが日本の法律では詐欺を立証することがとても難しい。

「明確に騙そうとしてお金を振り込ませた」と証明しないといけないからだ。

要は「悪意があるかないか」が論点なのである。

詐欺師はとても頭がいい。

大森は詐欺にならない程度の距離感でのらりくらり僕からの振り込みの催促をかわし続けた。

そして時が経ち、僕以外の仲間たちも大森が詐欺師だったことに気づき始めたとき僕はその対応に追われていた。なんせ1億円を超える詐欺である。

僕個人で数千万円出しているとはいえ、仲間たちの補償も当然してやらねばならない。本来僕も詐欺に遭っている被害者側なのだが、投資に参加していたメンバーの中には親族からお金を借りて投資用の資金を用意していたものも少なくなかった。

「お婆ちゃんに殺されてしまいます!!!どうか50万円だけでも振り込んでもらえませんでしょうか!!」

いい年をした男がなぜ老婆に殺されてしまうというのか。と喉まで出掛かった言葉を飲み、お金を返していった。

蓄えていたお金だけでは全員の補償ができなかった僕はアコムやアイフルなどの消費者金融数社から合計数百万円を借りてお金を補填していった。

元々やっていたビジネスもその影響で回らなくなり、当時付き合っていた彼女の”ヒモ”として生活をし始めた。

そして、1年が過ぎた。

ことあるごとに「働いてお金返したほうがいいんじゃないの?」と僕に言う彼女。ずっと消費者金融やかつての仲間から逃げ隠れする生活を続けた。

読書をし、スマブラをし、ある程度豊かな生活をしていたとは思うが限界は来た。

「なんで俺がこんな生活しないといけないんだ!!」

「ていうか、お金返してもらえばいいじゃん!」と当たり前のことに気づいた僕は大森に連絡を取り、数週間前に会う約束を取り付けたのであった。

久々に大森と会ったら、意外にも誠心誠意心の込められた謝罪をされた。

「お金は返しますから」と大森が言うから、次回しっかり返してもらう日付と、その日大森が財布に入れていた10万円を返してもらいその日は解散した。

1年間待ち続けて、やっと返ってきた10万円に小躍りした僕は大森にとってまさに「カモ」だったのかもしれない。

そして今日が、前回約束されていた「返済日」だった。

大森は約束の時間に現れることはなかった。若干腹を立てながら待ち合わせ場所で待っていると、警察官が何人も現場に押し入ってきた。

「おお!警察がついに大森を捕まえに来てくれた!」

咄嗟にそう考えていた僕に警察の一人が声をかける。

「三上さんであってますか?」

元気に返事をした。

「はい!三上です!!」

気づけばパトカーに入れられ、警察署の取調室にいた。

そんな記憶を思い出していた僕に田中が優しく質問を続けた。

「それは大変だったね。でもやっぱそれだけのことをされていたら会ったときも少し高圧的な態度を取ってしまったりしたよねきっと。」

どうしてそんなことを聞くのだろう?僕はいち早く大森の悪事を裁いてほしくてここにいるのだから捜査に関連することを聞いて欲しいのに、と思ったがとりあえず答える。

「いや、そんなことはなかったと僕は思っています。」

「んー、それはすごいなぁ。僕だったらそんなことされたら絶対怒るのに!」

それは怒っているに決まっている。元々人には寛容なタイプだが、こんなことをされて怒らない人などいるだろうか。

「そりゃ感情がどうみたいな話したら、怒ってはいると思いますよ。」

「じゃあ、その大森さんとこの前会ったときとかも多少は声を荒げてしまった部分もあったのかな?」

「んー、どうでしょうね。かなり優しく対応したとは思うのですが︙。」

”ナニか”を紙一重で躱した気がした。

「では、意図せず声を荒げてしまったというのも否定はしきれない感じかな?」

認めたほうが早いのだろう、と思った僕はやんわりと同意した。

「まあ、意図せず相手がそう受け取ってしまった可能性はあるかもしれませんね」

その瞬間勢いよく扉が開いた。バァーン!!体格の良い警察官が取調室に入ってきて僕に手錠をかけた。

「21時37分、容疑者逮捕!!!」

手錠を見て気づく。嵌められたのは僕だった。

それまでとても優しく対応してきた田中も僕から”出したかった一言”を出した瞬間態度をガラリと変え、冷たく冷静な表情で事務作業を進めていた。

「田中さん!?」

そんな僕の声に無情に田中が答える。

「そういうのいいから。あとで話聞くからね。」

”いい”わけないだろう!!全くの濡れ衣だ!!!

そう叫んだかどうかすら記憶は曖昧だが、あっという間に僕は拘置所へ移送された。

容疑は「恐喝」「恐喝未遂」「脅迫」だった。背丈が小さく好青年にしか見えない僕が、そんな恐ろしい単語と縁を持つことになるとは︙。

拘置所へ送られた僕はまず所持品と衣服を全て剝ぎ取られた。身体中を詳しく検査された。もちろん、”ケツの穴まで”だ。

そんなに詳しく見なくても僕は怪しい粉が入ったポリ袋も持っていないし、錠剤だって持っていない。というか、ただの大学生だ。というか最近は大学すら行ってない。ただのヒモが薬物なんて持ってるわけないだろう!と思ったが、当然そんな事情は関係ない。

そんな僕に遠慮なく事務的に進んでいく拘置所への移送作業。

身分証を確認して僕が東大生であるということを知ったのだろう。看守が口を開く。

「東大にも行ってこんなことしちゃダメじゃない。」

だから冤罪なんだと言っているじゃないか︙。考えてみれば、冤罪の主張は大抵の罪人がするので、本当に冤罪であった場合も信じてはもらえない。

発言する場所すら与えられなかった僕は持ち物を全て奪われた上、「7番」という呼び名を与えられ、部屋に移送された。

そう、僕は「7番」。その部屋は他にも複数名の”容疑者”が詰め込まれている部屋だった。

部屋に入れられ、時間が進んでいくと段々冷静になっていく。冷静になっていけばいくほど事態の深刻さが重くのしかかってきた。

昔どこかで聞いたことがある。日本の検察は一度容疑をかけたら「99%」有罪にされる。

じゃないと、検察官の評価が落ちてしまうらしく、彼らは自分の評価を落とさないためにも必死で僕たちを有罪にし、”クサイ飯”を長期に渡って食べさせようとしてくる。相手が冤罪かどうかなんて関係ないのだ。

聞くところによると、大森は時間稼ぎのために警察署に駆け込み嘘の供述をしまくったらしい。きっと、最後に会った時に「いよいよ返済を迫られるぞ」と感じたのだろう。

「金を返さないと妻を殺すといわれたんです!そのうえその時持っていたお金も強引に取られて、、、」

なるほど。だから「脅迫」と「恐喝」、そして「恐喝未遂」がついたのか︙。

拘置所での生活はなんとも無機質で機械的なものだった。

朝6時に強制的に起床。そこから布団を片付け、犯罪者かもしれない人たちと一緒に顔を洗う。

質素でシンプルな朝食を食べると、どうせ効果もないのに5分程で終わる謎の運動をさせられる。

そのあとは朝8時から夜の20時まで読書タイムだ。

拘置所の中にはスマホはもちろん、テレビも何もない。ただ、最低限の娯楽として本だけは数冊持ち込むことが可能だった。

1日12時間の読書タイムだ。

眼の奥に危険な光を灯す男、日本語を話せない中国人の男、細身で不健康な印象を与える小柄な男。その他様々な「刑執行前の犯罪者かもしれない人」に囲まれながらも穏やかな時間だった。

元々読書が好きだったので、この時間は思いのほか悪くなかった。人間、選択肢を奪われると目の前のことに没頭できるというか、なんというか。当然”読書しかできない”のだから抜群に集中できた。

逆に最低だったのはたまにある取り調べや裁判所へ行く日だ。この日は本も読めないし、ただ座って話を聞くだけで本当に最低だった。

「僕は本当に何もやってないですし、これは完全な冤罪です。」

と伝えているのに、

「はいはい、それは今から調べますからね。」

と流される。

大森はどうせすでに海外へ飛んだ後だろう。なんせ1億円もの大金を持っているんだから、ドバイでもシンガポールでもなんでも、どこにだっていける。

いや、もしかしたら物価の安い東南アジアのどこかで優雅に逃亡生活を満喫してるかもしれない。

そんなことを考えつつ、こういった取り調べや裁判の日は本当に無益だった。

何を供述したとしても意味ないし、そもそも「捜査中」なんだ。どうぞ、あんたらで海外でもどこでも好きなところへ捜査しに行ってくれ。そして早く俺をここから出してくれ。

そんなことしか考えていなかった。

拘置所生活が始まり数日経ったとき、僕が入れられている房室の隣の房に入れられていた男から度々話しかけられるようになった。

「おーい、暇なんだよー話そうぜー」

身体中に入れ墨を入れたスキンヘッドの男だった。拘置所へ移送されるときに看守に言われた一言が脳裏をよぎった。

「三上君ね、本当に冤罪なんだとしたら絶対拘置所の中で人と関わっちゃダメだよ。外に出たらこれがきっかけで犯罪に巻き込まれてしまったりするから。」

今回は冤罪だったが、冤罪による収監がきっかけで今度は”マジの犯罪”を犯すきっかけになってしまったら流石に笑えない。スキンヘッドの彼からの声を無視し、絶対そんなわけはないのに「聞こえない体」を装い本に視線を落とした。

そんな僕に構わずスキンヘッドの男は話を続ける。

「おーい、無視するなよぉ。どうせ看守かなんかに話しかけられても無視するように言われたんだろ?シャバに出たらどうせ関わらないんだから暇つぶしがてら話そうぜ?」

無視しすぎて逆に目を付けられても嫌なのでちょっとだけ返事をする。

「いや、外に出ても関わらないなんて保証はないじゃないですか︙。」

するとスキンヘッドの男は呆れたように笑いながらこう返してきた。

「名前も電話番号も住所も知らないのにどうやって関わるっていうんだよ。俺も名前は教えないし、ここでは「4番」だから4番さんとでも呼んでくれたらいいから。なあ、暇なんだよ。俺、文字が読めねえから漫画しか持ち込んでないんだけど、もう何周もしてんのよ。流石にもう暇すぎて気がおかしくなりそうでさぁ。なあ、話そうぜ。」

︙確かに。

名前も電話番号も住所も教えなければいかに仲良くなろうと外で関わることは不可能だ。

妙に納得してしまって、結局僕は「4番さん」と会話することにした。

4番さんとはかなり色んな事を話した。

4番さんはもうすでに有罪が確定しているらしいが、外に彼女がいるということ。

そして、4番さんが彼女に「出るまで待っててくれ」とお願いした夜のこと。

彼女さんは4番さんの出所を健気に待ち続けると決めたようだった。

また、4番さんは異様に取り調べやこういった拘置所へ移送されているときの対応に詳しかった。その中で僕は自分が冤罪を被り、果ては拘置所にまで入れられてしまった理由を知ることになった。

「警察はさぁ、先に逮捕できる筋書きとかさ、仮説を立ててんのよ。だからそれに合うように供述を取ろうとしたり、欲しい一言をもらうために何度も何度も違う角度から同じ質問をしてくるってわけ。質問に対して違和感を感じたら絶対に否定しないとダメだよ。テキトーに「そうかも」とか言ったりなんかしたらあっという間に手錠ガチャンで刑務所ドーン!!よ!!」

「え、それだったら僕やらかしちゃったかもしれません︙。高圧的な態度を取ったか、とかちょっと怒っていたかとか聞かれて何度も聞かれてるうちに肯定してしまってそのタイミングでいきなり手錠をされ、あっという間にこんなところまできちゃったんです。」

「マジかよ!やられてんな!!︙あ、でもまだ大丈夫だよ。今の7番くんの現状だったら調書とかにハンコしなけりゃなんとかなるから!てか最悪黙秘して全部無視とかしてりゃ問題なしよ」

なるほど。

拘置所に入れられ実刑を受けるかどうかがずっと決まらないまま不安に過ごしていた僕にとって4番さんはちょっとした心の支えになっていた。乱暴な口調とは裏腹に接しやすく、率直にいえば優しい人だなと感じた。

拘置所に入れられてからは、なんで自分がこんな目に遭うんだ!世の中が腐っているのか?自分が間違っているのか?と悩んでいた。

お金をだまし取られ、仲間を失い、みじめなヒモ生活にまで身を落とし、挙句の果てには冤罪で実刑まで喰らいそうになっている。世界が間違っているんだ。

︙けどそんなこと言ったって仕様がない。これから先も生きていくにあたって世界には自分にとって不都合なことが無限にある。何をしたとしても上手くいかないことのほうが多い。そんな世界の真実に向き合わず生きていっても良い人生はあり得ない。

人間に善と悪があるのならば、どちらが強いのだろう。

僕は今回のケースにおいて明らかに善だったはずだ。真摯にビジネスに向き合い、お金を稼ぎ、たくさんの仲間たちを稼がせていた。詐欺に遭った後も、自分のできる限りで仲間を守ろうと全力を尽くしたし、大森の言葉を信じて1年間も待ち続けた。

大森は悪だった。最初からお金を騙し取る前提で計画を作り、巧妙に僕に取り入り、信用を勝ち取り、たくさんのお金をだまし取った。そして僕にお金を返すと言いながら、最後には虚偽告訴で僕を拘置所にぶち込んで自分はまんまと逃げおおせた。

善であることは弱い。反対に悪は強い。それも恐ろしいほどに強い。

相手の為を思う善と自分の利益のみを追う悪。

違いが交われば悪が圧勝することは明白だ。

では、悪の方が優れているのか?そうでもない。

ただ、悪は強いが積みあがらない。奪ったら終わりで、その後の関係値なんて一切関係ない。奪ったら次、奪ったら次。

悪人として生きる人の人生は孤独だ。いつだって存在するのは悪友と、目の前にいる「次に狙うターゲット」でしかないから。これは詐欺師に限定された話ではない。日常生活を営む中で仮に犯罪を行わなかったとしても周囲の人間に対して搾取的で、狡猾に利己的に生きる人はいつだって「自分」と「それ以外」で考える。

「全員で勝つ」という概念がない。

対して善人は、弱いが積みあがる。人に対して何かを与えたい。周りの人と一緒にもっと豊かになっていきたい。皆で幸せな日々を送りたい。そう願い生きていく人は関わる人すべてが積みあがっていく。

何年も、何十年も同じ志や意志の元歩き続ける仲間は善でない限り得ることができない。

そうだ、そうだった。

善は弱いが積みあがる。僕は善でありたい。

そして善が弱さに負けず、善であり続けられるような世界を作るためにもう一度頑張ろう。そう思った。

目の前の4番だってそうだ。きっとこんなに心優しい彼のことだ。

僕が騙されて冤罪でここにいることを知った時、実は誰よりも憤り怒ってくれたのは彼だった。

「なんだその大森ってやつ!全く卑怯なやつだ!むかつくなぁ。お前可哀想なやつだな。その大森ってやつについて詳しく聞かせろ!シャバに出たら俺”やっちまう”から!!!」

何を”やっちまう”のか、怖くて聞けなかったが4番さんの心はとても優しく感じた。

彼も善の存在なんだとしたら僕と同じように冤罪でここにいるのだろうか。そう思い、なんでここにいて有罪判決を受けてしまったのかを聞いてみた。

「あ、俺?オレオレ詐欺のリーダーみたいなんやってた!」

︙めちゃくちゃ悪人やないかい。

心の中で、数年ぶりにツッコんだ。

僕はひどく混乱した。元々、人には善人と悪人の2つの人種がいると考えていた。

先述した通り、善人は誰に対しても優しく、誰に対しても与えることをベースで考える。悪人は対照的に奪うこと、攻撃することをベースで考えてる。そう、思っていた。

しかし、4番さんはそのどちらでもなかった。いや、どちらの要素も持っていた。

オレオレ詐欺をしていた時はきっと悪人として多くの人からお金を奪い、その姿はきっと完全な”悪”であったことだろう。けど、僕が出会った4番さんはそんな人ではなかったし、優しかった。

ここまで考えてあることに気づいた。

僕は自分を善人だと思っていたけど、もしかしたら自分も悪人なのかもしれない。

実際の時間よりも遥かに長く感じる拘置所生活で、僕は迷った。

数日間、本が自分に語り掛けてくる言葉と自分の身に降りかかった一連の出来事を含めて考えてみた。いろんな可能性を考えてみたが、この話は思っていたよりもシンプルだったみたいだ。

人に善人と悪人なんて存在しない。

人は「善人で在れる時」と「悪人になってしまう時」があるだけだった。

そして、善人かどうかの基準は自分が決めることでもないということにも気づいた。僕は自分が真摯にビジネスに取り組み、多くの仲間を幸せに、豊かにしてるから僕は善人で在れていると思っていた。しかし、僕を善人だと思ってくれていたのは仲間だけだった。

大森から見た僕はどうだろう。

確かに最初は、お金を持っていて、自分のことを信用してくれる僕は、さぞ都合の良い人間、善人だったかもしれない。

しかし、詐欺に遭った後のお金を失った僕は?

大森目線で見たら、もう奪えるほどのお金もないくせに、ひたすら請求をしてくる僕は”都合が悪い人”になってたと思う。つまり、取り立てをしてくる時の僕は大森から見たら「悪人」だった。

そして僕の元を去った昔の仲間たちにとっても、損をさせてくる僕は「悪人」だった。それまでの良い関係を保っていた当時の仲間たちから見ても、得をさせていた時ならまだしも、投資詐欺に巻き込んでしまった時の僕は「悪人」だったのだ。

僕はいつの間にか誰かにとっての「悪人」になっていた。だから僕は、ここにいる。罪状は「もう善人ではなくなった罪」。

妙に晴れやかな気持ちになったのを覚えてる。

よかった。世界が悪いわけじゃない。シンプルに僕が弱かっただけだった。僕が強くなれば僕が創り出したい世界は創れる。また多くの仲間たちと友情と信念に溢れた日々を送ることができる。

部屋は全く変わらず無機質で何もない、犯罪者だらけの空間ではあったが、気持ちは軽くなっていた。

そして拘留生活が20日に差し掛かったころ。大森と僕に関する一連の捜査がひと段落し、当然何も悪いことをしていなかった僕は無事釈放される運びとなった。

出所するとき、取り調べを担当した田中をはじめとする警察連中は最初に取り調べをした時からは考えられないくらい態度を変えていた。

最後に「逮捕してごめんね。このままだと俺たちが悪(詐欺師)の片棒を担ぐことになっちゃうから、頑張ってお金取り返してね。」と言われた。

取り返すのは、お前らの仕事だろうが。

なんて言わない。20日間の拘留を経て、僕は善人として生きる覚悟を決めていた。

久しぶりに感じた外の空気は、僕の新たな門出を祝うかのようにとても爽やかだった。

あの日から6年が経ち、僕は今アドネス株式会社代表取締役社長を務めている。

拘置所を後にしてからは改めて自分が出来ることは何なのか。どうすれば人に価値を提供し、自分自身が幸せな善人になることができるのかを追求し続けてきた。

自分なりに考えた幸福に生きる方法をYouTubeで発信してみたり、ビジネス系インフルエンサーの裏方をしたり。多少当たったり外れたりもしながらSNSマーケティングや教育分野のビジネスに全力で向き合ってきた。

その流れでまだビジネス系の発信が盛んではなかったTikTokを攻略した。すると、1週間で10万フォロワーも増やすことに成功した。

その経験を活かし、僕が直接TikTokのコンサルをしますよ!と募集をかけたところ瞬く間に月収が500万円まで増えた。この時コンサルをさせてもらった人たちは今、事業を何十倍も拡大させ界隈でも有名な起業家になっている。

そして、それらの実績をもとに4年前である2021年に設立したのがこのアドネス株式会社だ。

最初は四谷の古いアパートに事務所を借り、たった3名からスタートした。その後は紆余曲折様々な事件が起きつつも毎年とてつもないスピードで事業が成長し、事務所も2年でなんと3回も引っ越した。

そのたびに多くの仲間が集まり、現在はスタッフ数300名を超える大所帯になった。元々やっていた教育事業だけじゃなく、法人向けマネジメントSaaS事業にも拡大し、当初僕が見据えていたビジョンも一つ一つ着実に現実になっている。

本書執筆段階では年商21億円。だが、直近の月商も常に右肩上がりで、先月に関して言えばなんと契約高で7億円だ。1年後には100億の大台に乗るだろう。

そして、7年後には3兆円。善で在り続けることの難しさに比べたらこれくらい楽勝だ。

ただ、忘れないでほしいのがこんな僕も6年前には拘置所で実刑を受けるか否かで震える生活をしていた。そこからたったの6年だ。

6年で経済的な成功だけでなく、自分が志した「善人として生きる」を順調に体現し続けている。何よりも僕を信じてついてきてくれている多くの仲間たちが僕の周りにはたくさんいる。

たった一人で当時の彼女のヒモとして一日中家でスマブラをしていた時と比べたら涙が出るほどの変化だ。

さて、本書のタイトルは「起業の本質」。

「成功する起業の考え方!」とかではない。

僕が思うに起業家の本質とは結局のところ「資本主義の世界の中で、最大限の価値提供を追求し続ける。価値提供に身を捧げるという生き方」に他ならない。

そのために、売上が必要で利益が必要で、従業員が必要であるという話で、お金や名誉が第一ではない。

なぜ僕がTikTokで1週間で10万フォロワーを獲得できたのか。なぜコンサル生たちがその後何十倍もの事業拡大を実現できたのか。なぜアドネスが毎年とてつもないスピードで成長し続けているのか。答えは単純だ。

僕が「人間の本質」を理解していたから。

拘置所で過ごした20日間、そして釈放後の6年間で僕が学んだのは、すべてのビジネスの成功は「人間理解」にかかっているということだった。

人は何に心を動かされるのか。

何を求めているのか。

どんな時に行動を起こすのか。

これを理解せずして、本当の価値提供など不可能だ。

TikTokで僕の動画がバズったのは、アルゴリズムを理解したからではない。視聴者が「どんな瞬間に画面をスクロールし、どんな瞬間に立ち止まるのか」を理解したからだ。

コンサル生たちが成功したのは、僕がテクニックを教えたからではない。

「顧客が本当に求めているもの」を見抜く方法を教えたからだ。

アドネスが急成長しているのは、優秀な人材を集めたからではない。スタッフ一人一人の「働く動機」「幸せの定義」を理解し、それに応えるマネジメントを構築したからだ。

多くの起業本は表面的なノウハウやマインドセットを語る。しかし、そんなものはすぐに時代遅れになる。

本書で僕が伝えるのは、起業家として成功するために必要な3つの本質だ。人間理解、経営戦略、そして人生哲学。この3つの軸を体得することで、あなたは真に価値ある事業を創造し、持続的な成功を手にする起業家になることができる。第1章では、多くの心理学者や偉人たちが追求してきた人間の本質的なメカニズムを明らかにする。スティーブ・ジョブズがなぜ東洋思想に傾倒したのか。渋沢栄一がなぜ「道徳経済一元論」を唱えたのか。

起業家にとって人間理解がいかに重要かを、フロイト、アドラー、マズローといった心理学の巨人たちの理論とその限界を検証しながら解き明かす。そして僕が6年間の実践で磨き上げた「アドネス式理論」を公開する。ぼやけていた「顧客ニーズ」や「顧客に刺さるベネフィット」を見つける方法が明確になるはずだ。第2章では、これから起業をし、事業を興すあなたが最初にやるべきこと、事業の芽を出すために必要な”栄養素”を伝える。どんな事業が成功するのか。初期の顧客をいかに見つけ、どのようにプロダクトを作っていくのか。多くの起業家が躓く「0→1」のフェーズを確実に突破するための実践的な手法を、僕自身の失敗と成功の経験を交えながら詳しく解説する。第3章では、ようやく芽が出てきた状態の事業をいかにそこからスケールさせるのか、そのために考えなければいけない事業のスケール論を伝える。アドネスが3名から300名超の組織に急成長した背景にある事業設計、人材採用、システム構築の全てを解説する。創業4年で年商21億円を達成するまでの道のりで学んだ、事業を10倍、100倍に拡大するための戦略と実行力について語る。本書を読み終えた時、あなたは顧客の心の奥底にある「本当の欲求」を見抜き、それに応える価値を創造し、事業をスケールさせ、そして人として幸福な人生を送る—その全ての技術を身につけているはずだ。拘置所で震えていた僕が年商25億円企業の社長になれたのは、運でも才能でもない。起業の本質を理解したからだ。あなたも必ずできる。さあ、起業の本質を学ぶ旅を始めよう。

第一章 ― 人間の欲求と幸福のメカニズム

今を生きるヒントを残した昔の偉人たち

「ハングリーであれ。愚かであれ。」

そう説いたのは誰もが知るあのApple創業者にして、歴史的偉人となったスティーブ・ジョブズだ。

彼は一般的な起業家とは違い、様々な奇想天外なエピソードで有名だ。

エレベーターで少し話しただけの社員を「話がつまらない」と解雇にした話。

製品開発部が見せに来たiPhoneを水槽に入れ、「この気泡の分だけ小さくできるじゃないか!」と怒鳴りつけた話。

病に侵された時に医学を遠ざけ健康療法で治そうとし、悪化させてしまった話。

彼を紐解くと激しいエピソードが多く出てきて驚かされるが、iPhoneMacBookといった世界中の人々の生活を変えるほどのイノベーションを起こせたのは彼の激しい個性によるものが大きい。

1970年代初頭、ジョブズはカリフォルニアのリード大学に在学中、キャンパス内の禅仏教の講義や瞑想クラスに参加した。

大きな衝撃を受けたジョブズはそれだけに留まらず、インドを1人で放浪したりと精神的探求にのめり込んでいくことになる。

そこで出会ったシンプルさを美とする東洋の思想からApple製品はいかにシンプルで洗練されたデザインを作るかにコミットし、昨今に渡る栄光を築いた。

かと思えば禅とは対照的なヒッピー等と呼ばれるカリフォルニアのアンダーグラウンドカルチャーにもジョブズは身を投じていった。

当時1960年から1970年代のカリフォルニア。

LSDは当時、精神科医も研究していた物質で、創造性や問題解決能力を高めるとさえ言われていた。(1966年に違法化されるまでは)

そんな時代背景もあってか、若き日のジョブズはLSDも体験していくことになる。

そこで経験したLSDのことを後にジョブズは

「人には見えない繋がりが見えた。すべてがつながっていることがわかった。」

と語った。

ジョブズはまさにこの時代の申し子だった。

東洋思想も、西洋の化学もすべては「より深い真実」を知るための手段だった。

ここで重要なのはLSDを推奨するということではない。

ジョブズの人生が僕たちに教えてくれたのは、起業家にとって「人と人生に対する理解」がとても重要であるということだ。

一方、”新一万円札の人”でお馴染みの日本資本主義の父、渋沢栄一も人生や経営に関する哲学に関して興味深い教えを残している。

「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である。」

起業家を志すあなたならどこかで一度は聞いたことがある言葉だろう。

聞いたことがないそこのあなたも肩を落とすことはない。ここで聞いたのだから。笑

さて、そんな名言を残した渋沢栄一は幼少期から父に徹底的な儒教教育を受ける。

孔子の教えを人生に対する一貫した信念として抱いた渋沢栄一は企業経営において

「社会全体にとって“善い”ことが、長期的に見て個人・企業にも“善い”」

という言葉を残した。

哲学的な側面以外にも、現実の経営シーンにおける合理性や収支バランス、事業スキームの設計にも渋沢栄一は長けていた。

当時の明治社会には、士農工商の身分制度に根ざした「商人は卑しい」という考え方や、儒教に基づく「利より義」の思想が強く残っていた。

そんな風潮の中で渋沢はこう説いた。

「利益を得ることは悪ではない。むしろ道徳と強固に結びつけるべきだ。」

そんな哲学的豊かさと経済的合理性にこだわって生きた渋沢栄一は明治時代の日本社会において、みずほ銀行、東京証券取引所、帝国ホテルなどの今日まで残る有名企業を設立していった。

誇張でも比喩でもなく、彼は間違いなく”日本資本主義の父”としてその生涯を経営に捧げた偉人だ。

他にも様々な歴史に名を残すような大企業の社長たちは、それぞれが思う人生への向き合い方に関する言葉を残してきた。

彼らは日々生きるその中で「いかに人に対してもっと大きな価値を提供しようか」と考え、それに対する答えを探し続けてきた。

なぜジョブズや渋沢栄一の話から始めたか。

それは彼らが誰よりも「人間とは何か」を深く理解していたからだ。

ジョブズはシンプルで洗練された美しさは人の心を魅了すると理解し、洗練されたプロダクトと、それに伴う顧客体験をデザインした。

渋沢栄一は道徳的な経済こそがより多くの人を幸せにすると信じ、その通りに人生を経営に捧げ、素晴らしい企業をいくつも生み出していった。

彼らの人間や社会、人生や命に対する深い理解が革命的な価値提供を生んだ。

でも、多くの人は、そんな偉人たちの言葉を”自分とは関係ない話”だと思ってしまう。

「はいはい、よくある成功者の格言ね」「こっちは来月の家賃すら準備ができていないのに、なんだよ偉ぶりやがって」

と寂れた居酒屋で愚痴を吐く。

まるで自分が無関係の赤の他人かのように。

ただそれは全くの勘違いで、これから起業家として生きていくあなたにとって、「人」というものに対する揺るぎない考え、幸福に対する考えこそが世に素晴らしいサービスを送り出す”種”になる。

その理由をあなたが理解するために、ビジネスにおいて最も大切といっても過言ではない「価値提供」の定義について考えてみよう。

「価値提供」と一言で言っても難しい。

あなたが起業家となり、顧客に提供する”価値”とはなんなんだろう?

結論、「”相手”が感じる価値を与えること」が価値提供の本質だ。

あなたが誰かに価値を提供するためにはまずは相手が喜ぶこと(=相手にとっての価値)を知らなければいけない。

あなたがパン屋をやろうと、引越し業者をやろうと、ネットでオンラインスクールを始めようと、アパレルブランドをやろうと、結局は誰が買うのかというとそれは「人」だ。断言できる。

相手にとっての価値を理解できない人間に、価値を提供することは絶対にできない。この絶対ルールから逃れた起業家は世界に1人も存在しない。

もし本書を読んでいて、「先週自分が経営しているバーに隣町に住んでいるオランウータンの親子がやってきたよ」なんて人がいるなら今すぐDMを送ってほしい。

そんな珍客があなたの店に現れたのなら、その時はこの本の続きは一緒に書こう。

人間が喜ぶものを深く理解したければ大まかに2つ。「欲求」と「幸福」さえ理解すればいい。第1章では人を効果的に理解するアプローチとして僕を含む全ての人間が抱く「欲」と僕たちが欲してやまない「幸福」というものに焦点を当てて深掘りしてみたいと思う。

人はなぜ何かを欲する?

ドイツやイタリアの車のパンフレットや雑誌を書店で立ち読みし、それに乗ってる自分を想像し肩を落としながらもう6年は替えてない型落ちの国産車に乗り込んだあなたが落胆するのはなぜか。

昨年より3000円だけ増えた給与明細をくしゃくしゃに鞄にしまいこみ、”華の金曜日”に華のない夜を過ごすのはなぜか。

そして、なぜ書店やネットで見つけたこの本にお金を払って今読んでいるのか。

人間の行動の全ては「欲望の解消」が原動力だ。

1章の前半ではこの欲望に関して深く切り込んでいく。

この章さえ読んでもらえれば、人間がどのように欲望を感じるか、なにに喜びを感じ、なぜ悲しむのかまで、全て理解できるようになるはずだ。きっとあなたが日々感じる憤りや不安の正体もわかるし、あなたが本当に欲しいものの正体もわかることだろう。

欲望を制するものは人間を制する。

とにかく、第1章前半を読んでもらえれば人間の解像度は一気に高まる。読み終わった頃にはきっとあなたが日々感じている欲求の本質に触れることができるはずだ。

人間の欲求の話を前半で理解したら、今度は欲求の解消の先にある幸福の本質について、深掘りしていく。これもあなたにとって非常に興味深い話になると確信している。

どんなビジネスも例外なく、誰かの幸福に貢献するものでなくてはならない。

経験上、数千人にビジネスモデルの作り方やSNSをはじめとするマーケティングの抽象的な理論から具体的なハック術まで教えてきたからわかるが、人が求めているのは結局「幸せになる方法」だ。

経済的成功を願う20代の若き営業マンはオフィスの壁に貼り付けられた営業成績の自分の名前の欄を伸ばすことに必死になっている。営業成績さえ伸びたら自分は幸せになれると信じているからだ。

その横を通りすがるノマドワーカーとしてフリーランスをしている彼はもう通いすぎて飽きてしまったスターバックスを横目に果物の匂いがする煙を吸いにシーシャカフェに入っていった。気楽に自分のペースで働けるその生活が幸せだと信じているからだ。

温かい家庭を求め必死で土曜の真昼間から結婚相談所のコンサルタントの元へ頻繁に通う30代を目前に控えた女性は理想の男性を血眼で探している。いつか出会う”その人”が自分を幸せにしてくれると信じているからだ。

時が過ぎ夜を迎えた同じ町には、そんな未来が自分に来るなど一切想像もしない若い女性が渋谷のクラブ街に消えていき、気の合う仲間たちと酩酊状態になるまでテキーラを飲んでいる。上京する前に夢見ていた刺激的な幸せが目の前にあるからだ。

人が幸せや欲求を抱くメカニズムはとても複雑で、尊敬すべき偉人達が何千年も真理を追求してきたにも関わらず、現代に生きる人間はその大半が未だ答えを出せずにいる。

そんな多種多様な人たちが過ごす社会に対してあなたはこれから起業家となって価値あるプロダクトを作り上げ、提供していくのだ。

世の中には面白いプロダクトが溢れている。

自炊するのもめんどくさいし、外に食べにいくのもめんどくさい、という自堕落な欲に寄り添ったのがUber Eatsだ。

自炊すらせず、外にすら出れず、自堕落な自分を変えたいけど自力では痩せれないから、誰かに徹底的に管理してもらって痩せたいと願った人たちがいたからRIZAPは生まれた。

人の弱さや脆さに寄り添って価値を創り出すのも起業だし、自分を奮い立たせて成長しようと願う人に寄り添うのも起業だ。

どちらにも共通するのは、「楽に飯が食いたい」や「多少値段が高くても、キツくても確実に痩せたい」という人間の「欲」から生まれた”需要”であるということだ。

そして、その需要の先に人が向かっていくのはいつだって「その人なりの幸せ」だ。

だから、起業家になりたいあなたに一番最初に届けたい。

人の「欲」と「幸福」の本質をまずは紐解いていこう。

人を動かすガソリンは何?さて、いよいよ「人の欲」に関して深堀りしていくわけだが、人間の欲求というテーマがいかに興味深いかについてまずは伝えさせてほしい。

人間の三大欲求といえば食欲・睡眠欲・性欲だがその中で食欲をピックアップしてみよう。

一般的に食欲を満たそうと思ったとき僕たちは”価値との交換券”であるお金をどういった部分に使うだろうか。

健康意識が高く、自炊する癖がある人だったらスーパーに行き、食材を買ってるだろう。

仕事が忙しくいつも疲れて帰るどこかのサラリーマンは帰宅中のコンビニで弁当を買って食べているだろう。これらは高くても700円程度の価格で、正真正銘食欲を満たすために買っている。

では、一人5万円もする豪華なレストランに足を運ぶ自称グルメなお金持ちは「食欲」を満たそうとしているのだろうか。

5万円のディナーといっても原価で計算すればせいぜい5000円から1万円。食欲を満たすためだけに5万円もの大金を喜んで支払うのは余りにも不合理だ。ではこの5万円は何に対する対価なのか。

雰囲気?サービス?希少性?どれも違う。

ここで一つ、起業家を志すあなたに重要なレッスンをしよう。ビジネスとは、価値提供だ。

効率的に価値を生み出す仕組みを作りさえすれば、あなたは資本主義社会を簡単に勝ち抜くことができる。

では「価値」とはなんなのか。

これはなかなか説明が難しい。そんな複雑な概念である「価値」を説明する一つの答えがこれだ。

”価値とは「感情」である。”

僕はこの説明がお気に入りだ。

相手が感じる「価値」とは、相手がその瞬間に感じる最高な感情のこと。僕たちは、アツい感情を味わうためならどんな大金だって払ってしまう。

5万円のディナーもそう考えると合点がいく。ただの食欲を満たすために使うとは考え難い大金も、「最高に美味しい料理と1食5万円もする食事に興じることができる自分」という現実が生み出す様々な感情を買っていると説明すれば納得ができる。

彼が買っているのは食事ではなく、「食事という体験を通して得られる”ポジティブな感情”」なのである。

そしてその「感情」を生み出すのが「欲求」だ。

私たちは欲求が解消されればポジティブな感情で天にも昇るような気持ちになれるし、欲求が解消されなければネガティブな感情に苦しめられる。

美味しいものを食べたいという純粋な食欲や、「未だ自分が知らない味を知りたい」という欲求を解消した時に得られる大きなポジティブ感情に、自称グルメなお金持ちは5万円を払うわけだ。

場面を少し変えて、近年市場を拡大している宅配型の冷凍弁当はどんな欲求を満たすプロダクトなのか考えてみよう。

その冷凍弁当はそのまま容器として食べられるようにパッケージされており、自宅にある電子レンジに数分入れたら健康的に問題がなく、大手牛丼チェーンと比べたらやや美味しくないというだけで十分美味しい弁当だ。

この弁当は食欲を満たすのと同時に、「自炊はめんどくさい」「かといって健康にも気を使いたい」という欲求を解消している。

1000円から2000円を払えば誰でも上等なTシャツを手に入れられるこの時代に一着10万円以上もするハイブランドのTシャツを着ている彼らは何を考えているのか。

彼らは決してユニクロやGUのような安価で高品質な服を提供しているアパレルブランドを知らないから損をしているわけではない。

2000円のTシャツがあることを知りながら、同じ素材で生産地も同じで値段だけが異常に高いTシャツを着てるのだ。

人々が生きることに困らなくなり、住む場所も食べるものも、身に着けるものにも困らなくなった現代社会は複雑化された欲求が入り乱れている。

30年前の当時の若者が抱いていた欲求は、「いい車、素晴らしい彼女、夢のマイホーム」などが社会全体の流れとして強かったが、現代は違う。

「推しに貢ぐ」であるとか、「FIREして自由な余生を」とか、「この仕事に意味はあるのか」だったりする。

わずか1世代で、欲求の中身は変わった。昔憧れられてきた生活は今でいう「古い成功像」になってたりする。

今若者が抱く欲求を親や年の離れた先輩方に伝えると「最近の若者は活力が足りん」などと言われてしまったりする。

だけど、何千年経っても変わらないメカニズムが人間の欲求にはある。発展する現代社会において複雑化された欲求を、まずは構造的に理解するところから始めてみよう。

人間の「欲求」に挑戦してきた先人たち

人間の行動は、どこまで科学で説明できるのか?

19世紀、心理学者たちはこの疑問に挑んだ。最初に現れたのが、ワトソンとスキナーの「行動主義」だ。

「人間の行動は刺激(S)と反応(R)の連鎖で説明ができる」というのが主な主張で、2人が提唱した習慣形成や行動の条件付けなどのロジックはのちにマーケティング理論にも影響を与えた。

心の中はブラックボックス。

つまり、感情は観測ができないため、「目の前の行動が、どんな刺激(S)で生まれたのか」だけを分析すると決めたのがこの行動主義という考え方だ。

有名な例を挙げてみよう。

「パブロフの犬」という有名な実験がある。

実験の内容はこうだ。

犬に餌をやる前にベルを鳴らす。そして犬に餌をあげる。

これを習慣として続けていくと犬は「ベルが鳴ると餌をもらえる」と学習するようになっていく。いずれ学習を終えた犬は、ベルを鳴らすだけでよだれがでるようになる。

この実験結果を受けて「人間も同じように、報酬と刺激で操作ができる」とワトソン達は考えた。

実はこの理論を元にして、学校教育や会社にも「報酬と刺激システム」は取り入れられている。

テストで点がよければ褒められるという「刺激」に対して、人は褒められたいから「頑張る」という反応をする。遅刻したら減給するという「刺激」に対して遅刻しなくなるという「反応」をする。

ちなみに、現代版パブロフの犬として有名な話として、「スマホの通知音」がある。

スマホの通知を確認すると、たまにいいことがある。それは好きな女の子からのメッセージかもしれないし、商品が売れたという通知メールかもしれない。または好きなインフルエンサーの新着投稿の通知かも。なんでもいいが、僕たちは「通知」を通してたまに「嬉しい経験」を日常的にする。

「通知で喜ぶ」という流れを学習した結果、現代人は通知音に対して反射的にスマートフォンを見るという行動を取るようになっている。

僕たちは完全に飼いならされているのだ。(ちなみに僕はこれが嫌で、スマートフォンは常に”おやすみモード”にしている)

これらのような人の行動をベースに構築されたこの理論は、マーケティングや様々な教えとして浸透はしたが、課題もたくさんあった。

例えば、「子供に”いい点を取ればお菓子をあげるよ”と教えれば、勉強するようになる。」という主張があったとして、その子供の中にあるかもしれない自発的なやる気やほかの理由にフォーカスすることができないのだ。

そもそも同じ罰を与えても反発する人もいれば改善する人もいる。

つまり行動主義は、人間を「高度な反応マシン」として理解しようとした最初の試みであったが、人間の本質に迫るには物足りないものであった。

一方、同じ頃のウィーンで、全く逆のアプローチを取る男がいた。ジークムント・フロイトだ。

フロイトが活動していた19世紀末から20世紀初頭の西洋は「人間は理性的で合理的な生き物である」という考え方が主流だった。

ルネサンスや啓蒙思想の延長線上の当時の西洋は、ちょうどダーウィンが進化論を提唱していた頃で、科学万能主義の時代だった。(簡単にいうと、「科学、すげえ!」という時代)

そんな当時の西洋において精神疾患やヒステリーは”悪魔の仕業”とか”そもそも気のせいだ”とされる風潮があったらしく、そんな時代にフロイトは

「いやいや、人間はそんな理性的な存在ではなくて、むしろ”無意識的に生きる獣”だよ」

という当時からしたら”ヤバい思想”を社会にぶち込んだ。理性的で合理的な自分たちの種族に誇りを持っていた大衆に向けてそんなことを告げるのだ。もしかしたら結構炎上していたのかもしれない。

フロイトの理論で最も革新的だったのは、心に層構造があるという考え方を提唱したことだ。フロイトは心や人の思考を3つの層に分けた。

「意識」「前意識」「無意識」の3つだ。

意識は自分自身が自覚している思考のことで、いわば一人で駅に向かって歩いているとき、何気なくSNSを見ているときに頭の中でずっと”独り言”を言ってる時の”アレ”だ。

(あー、今進めてるプロジェクト、大変だなぁ。そういえばこの前の合コンで会った華ちゃんからの連絡が来ないなぁ。え、「薬屋のひとりごと」映画化するの?アツいなぁ。これは絶対見ないと。そういえば━━)といった具合で、何気なく道を歩いている時や、スマホを触っているときに頭の中でとめどなく流れ続ける意識を想像してくれたらわかりやすいと思う。

そして前意識は、頑張れば思い出せる情報のことで、簡単に言えば”記憶”などのことを指す。そして、フロイトが提唱した中で最も興味深いのが「無意識」。

僕たち人間が”気づいてすらいない”深層の欲望や感情のことを指す。

例えば、「親を愛しているけど、心の底では恨んでる」というような感情が典型だ。表面的には親を大切に想っていても、幼少期の経験や、何気ない言葉、無意識に向けられた目線などが積もり、気づかぬうちに”恨み”が蓄積されていく。︙なんてことを、もしかしたらあなたも経験しているかもしれない。

こうした認知されない感情の蓄積こそが、フロイトの言う「無意識」なのだ。

フロイトによれば、無意識下では3つの要素が常に衝突している。

まず、本能や欲望、性的衝動を含む「獣の部分」。次に、現実と折り合いをつける「調整役」。最後に、道徳や良心といった「社会的な自分」。

この3つの自分が、人間の行動を決めているという。

フロイトが残したこの理論は今の心理カウンセリングや臨床心理学でも活用されており、トラウマ理論や、自己分析系の活動にも大きく影響を与えてる。何よりも、「人間は理性の生き物!」「超賢い!」「すごく尊い存在だ!」などの”人間理性神話”を崩した点は歴史的に見ても心理学における偉大な一歩と言える。

しかし、それでもフロイトのこの理論はあまりにも解釈が自由でなんでも説明ができてしまうという欠点を抱えていた。

遅刻してきた人が、電車の遅延や体調不良、ただ寝坊しただけでもフロイト風に言えばそれは「無意識的にその場に来たくなかっただけ」ということになってしまう。

無意識という解釈を無限に膨らませられる概念を持ち込んだことによって科学的に検証ができず、反証が不可能になってしまった。なんでも説明ができてしまうフロイトの理論に対して、哲学者カール・ポパーは

「どんなデータも理論を支持するように見えるなら、それは科学ではない。科学とは”反証可能性”を持つべきだ」

と異議を唱えたという。

つまり、「〇〇という現象が起きたのであればこの理論は間違い」という検証ポイントがない理論は科学ではなく、信仰や哲学の領域であるという話だ。

結局フロイトは、「人間は自分でも理解できない存在」という不都合な真実を突き付けたのだ。

フロイトは人間が認知していない意識(=無意識)があることを教えてくれたが、「嫌われる勇気」で有名な世界的哲学者であるアドラーは更に一歩踏み込んで人間の欲や真理に迫った。

フロイトの理論では、無意識の葛藤が全てであるという主張がされていたが、アドラーはそれとは対照的に意識的に人生のスタイルは選べると主張した。

他にも、フロイトは人間を「欲望や性衝動に支配される動物的な存在である」と主張したが、アドラーは人間を「劣等感を乗り越え、社会に貢献しようとする存在」と表現した。

アドラーは元々はフロイトの弟子として精神分析学会に所属していたが、フロイトと以上のような意見の不一致から意見が合わず、1911年にフロイトと決別して個人心理学を提唱した。

アドラーが提唱した個人心理学の中でも有名な理論は以下の通り。

劣等感:人は「自分は他人より劣っている」という感情を持ちやすく、それを原動力に行動する。

補償:劣等感を克服するために、努力したりほかの能力でバランスを取ろうとする

目的論:人は”未来に向かってどうなりたいか”というのを原動力に動く

ライフスタイル:幼少期の経験からその人なりの世界観や思考パターンは形成される

共同体感覚:人は社会的存在であり、他者への貢献・所属感・連帯感を求める

アドラーの心理学は”人間の未来志向”と”社会性”に注目した画期的理論だといえる。

このように、近年多くの知識人たちが人間の欲求や行動原理について研究してきた。

しかし、それらはまだ”つぎはぎの地図”のようにどれも正しいが全てに共通して言える理論に昇華されることはなかった。

ワトソンやスキナーが説いた行動主義も確かに正しいが、欲求や情緒が幼くシンプルな思考回路の人にしか当てはまらないことが多い理論だった。行動主義では、お菓子を食べたいから勉強する子供について説明することはできても、「将来就きたい職業があるから」と勉学に励む子供については説明ができない。

フロイトは「無意識」という人間の意識化に巨大な”氷山”があることを発見した。でも、氷山の下に何があるのかまでは見なかった。しかも、その氷山の説明は暗くて冷たいものばかり。おまけに少しだけ精液の香りもする。フロイトは、希望や愛を原動力に動く人間を説明しなかった。

アドラーは社会性を語り、人間が過去を原動力に未来へ突き進むものだと主張したがこれもすべての人に当てはまるものではなかった。

アドラーが提唱した理論は場所とタイミングが変われば当てはまらないことがある。例えば、今日明日生きることすらままならないスラム街の孤児が自己実現を目指し努力していると主張するのは少し強引だ。

毎日の食料探しの中で学んだ「3丁目の八百屋のおじさんは機嫌がいいときにリンゴを恵んでくれるから週に2度くらいあそこの八百屋に行くのは効果的だ。」という行動原理はどちらかというと行動主義の理論に当てはまるだろう。

偉大なる先輩方に若輩が偉そうなことを言ってしまったが、何も全部が全部理論として間違っているなんて思っていない。

ただ、各理論にはそれぞれ限界があるということをあなたには理解してほしい。

彼らの理論のことを”つぎはぎの地図”と表現したが、本当にその通りのイメージでとらえてほしい。

地図自体は正確だし、正しいのだけどそれぞれの地図は狭すぎたり、全く違う部分の地図であったりと、どれも「人間の欲」という全体を見渡せる理論ではなかった。

僕は、哲学者ではなくビジネスマンなので、「僕たちの人生に今すぐ役に立つ理論」にまで哲学を昇華したいと考えている。その観点でいうと、主題である「欲の本質」を理解するには少々足りないという話だ。

さて、様々な角度から人の欲求や行動原理についての理論をあなたに伝えてきたが、いよいよ次に紹介する理論が”大トロ”である。

全ての人間に共通し、かつ人間のポジティブな面もネガティブな面も網羅的に理解することができる理論を紹介する。しかしその理論だけを伝えても起業家としてプロダクトを作ろうと志すあなたには少々物足りないと思うので、1つだけ独自の視点を追加する。

それは僕がこれまで数千名を超える起業を志す人々と接してきて見つけた”独自の視点”だ。

「需要とは?」とか「どうすれば人が求めるプロダクトが作れるだろう」と悩み、夜な夜なパソコンのモニターを睨み続けているあなたに本質を贈ろう。

  • 人の欲求とは本質的に何なのか
  • そして欲求とはどのように需要と結びつくのか
  • あなたはそれを踏まえてどのように欲求を満たすプロダクトを考えればいいのか

分かりやすくまとめることができたと思う。

題して、「マズローの欲求5段階説 アドネスVer」だ。

マズローの欲求5段階説

マズローが現れるまでのこういった人間の研究は、主に「不健康な精神の人」を軸に行われてきた。

行動主義は、問題行動を矯正するための方法として刺激と報酬のメカニズムを考えた。フロイトは神経症患者の研究の先に「無意識」を発見した。

それに、臨床心理は精神疾患の治療のために理論や理屈をこねくり回した。

彼らの研究に関するスタンスとして、「人間を理解するには、壊れた人間を研究すればいい」というものがあった。

だから彼らの理論では説明がつかない事例がたくさんある。

  • マザー・テレサはなぜ人を助けるのか?
  • ゴッホはなんで一枚も売れない絵を描き続けた?

こういった謎に迫るべく現れたのがアブラハム・マズローだ。

彼は「健康な人」を研究した初めての心理学者だった。

彼が提唱した「欲求5段階説」をまずは細かく解説していきたいと思う。

マズローの欲求5段階説の全体像マズローの欲求5段階説がそれまでの理論と比較したときに秀でていたポイントはいくつかある。それまでの心理学者が人間の精神的な病気や不具合を理解し治すために理論を作っていたのに比べ、マズローは人間の「もっと良く在りたい」に寄り添った理論を作った。

だから、それまでの心理学者が精神疾患の患者を対象に実験や検証を行ってきたのに比べてマズローは精神的に健康な人を対象に実験と検証を行ってきた。

その実験の果てにマズローは欲求を5つの階層に分けた。(※図1)

第1段階:生理的欲求

第2段階:安全欲求

第3段階:社会的欲求

第4段階:承認欲求

第5段階:成長欲求

ちなみにマズローの欲求5段階説の本家の本では第5段階の欲求を「自己実現欲求」と表現されているが、「それよりも「成長欲求」と表現した方がしっくりくるよね」と弊社では結論付けてるため、本書もそれに倣って”成長欲求”と表現させてもらっている。(詳しくは後述する)

さて、このように欲求には5段階の階層があるというのがマズローの欲求5段階説の全貌だ。

踏み込んで解説する前に各欲求の解説と、その欲求から生まれた需要に対するビジネスとして具体的にどんなものがあるのかなどを見ていきたいと思う。

第1段階:生理的欲求

生理的欲求は、言葉の通り「人間が生きる上で最低限必要なもの」に対する欲求のことを指す。

主には「食事」「睡眠」「排泄」「性的欲求」「体温調節」など。

それらは全て僕たちが生物として生存するために必要な欲求だ。当然、これから解説する他の4つの欲求と比べて圧倒的に僕たちに対する影響力は強い。

だからこの欲求が満たされていない状態で人は他の欲求を考えることはできない。

他にも”快適な環境で生活をしたい”や、”健康な状態を維持したい”という欲求も生理的欲求に属している。

こういった生理的欲求を解消するビジネスとしては、飲食産業や性産業などが典型だ。

他にもトイレのウォシュレットなどの商品も、「より快適に排泄をするための商品」という意味ではここに属すると言える。

第2段階:安全欲求

安全欲求は「身体的・経済的・精神的な安全を求める欲求」と覚えてくれれば間違いはない。

様々な危険から身を守り安定した生活を守るために”予測が可能で秩序のある環境を求める”欲求だ。

現代で言うと、

  • 経済的な安全性(安定収入、貯金、保険、年金など)
  • 身体的安全(治安のいい場所への欲求、医療保険に対する期待など)
  • 雇用の安定(正社員として長く雇ってほしい!副業でも稼ぎたい!スキルを上げたい!など)
  • 情報セキュリティ(個人情報が多くの人に漏れないか?データは安全に保管されているか?など)
  • 将来への不安(老後の何円残せるか、子供の養育費は稼げるか、病気になったらどうするか、など)

などがわかりやすい安全欲求の典型だ。

ちなみに日本人は他の国と比べても段違いで安全に対する欲求が強い。それは裏返すと、日本人は不安を感じやすい性質があると言える。(実際に「SS型」と呼ばれる不安を感じやすい遺伝子を持っている人が人口の約68%と、日本は世界で一番不安を感じやすい人の割合が多い国だという研究もある)

その証拠に日本はアメリカに次ぐ世界第2位の保険市場を持つ”保険大国”だ。日本では、全世帯のおよそ9割が生命保険に加入しているから僕たちはそれが当たり前だと感じがちだが、世界水準で見た時に決してこれは当たり前じゃない。

そんな安全欲求を解消するビジネスとして、

  • 金融業界:銀行、保険会社、証券会社、クレジットカードなど
  • セキュリティ:警備会社(セコム、ALSOK)、防犯カメラなど
  • ITセキュリティ:ウイルス対策ソフト、VPN、バックアップサービスなど

などはわかりやすい。

第3段階:社会的欲求

社会的欲求は、人間が社会活動を営む上で、友情や愛情、所属感を得たいという欲求。孤独感を避け、集団に受け入れてほしい!と願う欲求のことを指す。

別の言い方で「愛と所属の欲求」ともいう。

「恋人が欲しい」「結婚がしたい」「将来は温かい家族を作りたい」

などの感情は愛を求めている”社会的欲求”だし、

「気の合う友達が欲しい」「一緒に遊べる知り合いが欲しい」

などの感情は友情を求めている”社会的欲求”だ。

他にも”コミュニティへの参加欲求”も人間にはある。(帰属欲求ともいう)

会社や学校、スポーツチームなんかもそう。同じアーティストを追いかけるファンクラブなんかもここに該当する。

中でも近年この社会的欲求に対して大きなインパクトを起こしたのが「SNS」の登場だ。

それまで身近な人や有名人しか認知することができなかった僕たちはX(旧Twitter)やInstagramYouTubeFacebookの登場で遠く離れた会ったこともない人間を認知することができるようになった。

これは社会的欲求のいい意味でも悪い意味でも大きなインパクトを与えたといえるだろう。

そんな社会的欲求の解消をメインターゲットとするビジネスとしては、以下がある。

  • マッチング:結婚相談所、マッチングアプリ、街コン、など
  • SNSFacebookInstagramXDiscord、など
  • イベント:婚活パーティー、オフ会、フェス、コンサート
  • 職場環境:コワーキングスペース、社内イベント、

他にも近年有名人が主催して開かれたりする”オンラインサロン”なんかも社会的欲求を解消するためのビジネスだ。

その多くは”もっとビジネスで成功できるように”や、”もっとモノづくりを本気でしよう!”とか様々なスローガンを掲げてはいるものの、結局は「同じ志に集まる仲間たち」を売っているともいえる。

第4段階:承認欲求

承認欲求とは、「他者から認めてもらいたい」「尊敬されたい」という欲求のことだ。自分自身の価値を認めてもらい、地位や名声を得たい。そんな欲求を指す。

身近なもので言うと、

  • 仕事での成功:昇進、昇給、表彰
  • 社会的地位:肩書き、学歴、資格、専門性の認知
  • ハイブランド志向:高級品、限定品

が主なものとして挙げられる。

それ以外にもSNS上での承認なども承認欲求の代表格だといえるだろう。

フォロワー数は何人?いいね数は何回?最近バズった?その人の1投稿で何人が動く?

こういった指標もまた個人の価値を測るうえで大きな物差しとして確立されているといえるだろう。

また、承認欲求には「外的承認」と「内的承認」の2つがある。

外的承認とは、他者からの評価を元に承認欲求を得る。内的承認の場合は、自分の中の評価で承認欲求を得る。

年収1000万円を何年も努力してようやく達成した2人のビジネスマンがいたとしよう。

1人目の人はようやく年収1000万円を達成して喜んでいたのも束の間、年収3000万円の人と知り合ってしまい、それがきっかけで承認欲求を満たすことが出来なくなってしまった。

2人目の人は年収1000万円を達成するという自分の目標に向けて一歩一歩頑張ってきた自分の過去を思い出しながら、目標を達成したら買うと決めていたずっと憧れていた車を買い、また新たな目標に向かって努力し始めた。

もちろん、前者が外的承認タイプで、後者が内的承認タイプだ。

同じ成果や環境を手にしても、外的承認に依存する人は常に不安定で、内的承認を重視する人は持続的な満足感を得られる。起業家にとってこの違いを理解しておくことは極めて重要だ。

なぜなら、これを理解しておくとあなたの商品を訴求するときや企画するときに、どちらのタイプに寄せるべきかで考えることができるからだ。

承認欲求を解消するビジネスとして以下の通り。

  • 高級ブランド:ルイ・ヴィトン、ロレックス、BMW、高級レストランなど
  • 教育、資格:MBA、各種資格試験、語学学校、コーチング、コンサルなど
  • SNS、メディア:YouTubeInstagramTikTokなど
  • ビジネス支援:コンサルティング、起業支援、セミナー、書籍

これらは承認欲求を満たすために生まれたビジネスだ。

第5段階:成長欲求(自己実現欲求)

成長欲求とは、「あたらしい世界を見たい」「理想の自分になりたい」と想う欲求のことを指す。

マズローの欲求5段階説の本家のほうでは「自己実現欲求」と表記してあるが、間違いだ。原著にも、「自己実現とは、自己充足への欲求を指す。すなわち、人が自分の潜在的な可能性を現実化しようとする傾向のことである。」とある。

つまり、自己実現とは「欠乏」を埋めるためのものではなく、潜在的な能力を発揮する「成長」への欲求として語っているのだ。

ということで、ここでは「成長欲求」と称させてもらいたいと思う。

さて、そんな成長欲求にはこれまでの第1〜第4欲求までの欲求と違った性質を持っている。

それは、”満たされるほど更に強くなる”という性質だ。

例えば生理的欲求の”食欲”だったら、食事をして腹が満たされたら食欲は消える。

経済的な安全欲求も、自分自身が満足するほどの貯蓄や収入を得ることが出来るようになったら消える。

社会的欲求だってそうだ。恋人がいるのに「恋人ができない。。」と悩む人はいない。

このように、第1から第4までの欲求には「終わり」がある。

が、成長欲求には終わりがない。

例えば、「もっと素晴らしい表現をしたい」「もっと素晴らしい絵を遺したい」という成長欲求を抱く画家が素晴らしい絵を描いたらどうなるだろう。

「こ︙これは!!素晴らしい絵が描けたぞ。。。」

「︙」

「︙よし!転職するか!」

とはならない。

きっともっと素晴らしい絵を描くために新たなキャンパスを引っ張り出し始めるだろう。

他にも、「素晴らしい一口」を作るために何十年も寿司職人として一つの分野に全てを捧げてきた人物が調理中に

「本当はもう少しこだわりたいんだけど、どうせ目の前にいるこの成金の馬鹿野郎にはわからない違いだし、このまま出しちまうか。」

なんてならないだろう。

きっとその職人の目は、すでに明日の「究極の一口」を見ている。

このように、人間の成長欲求というものに終わりはない。

そんな成長欲求を満たすビジネスは以下の通り。

  • 創作支援:Adobe、楽器メーカー、画材店、創作スペースなど
  • 自己啓発:セミナー、コーチング、瞑想アプリ、オンライン講座など
  • 支援補助:クラウドファンディング、寄付プラットフォームなど

更なる創作を行いたい人に向けて、ソフトや楽器そのもの、道具を販売する。自分自身の理想を探してる人にコーチングを行う。挑戦する情熱と技術はあるが経済的な理由で挑戦できない人がお金を集める手助けをする。

これらはすべて成長欲求を満たすためのビジネスだ。

マズローの欲求5段階説の限界

このように、欲求を5段階に分けてそれぞれを明確に構造化することに成功したマズローの欲求5段階説だったが、この理論にもやはり限界はあった。

深刻な問題がある。

欲求が多岐に渡りすぎて、個人差がありすぎる。話自体は面白いが、”当たり前すぎて使い物にならない”のだ。

「承認欲求を解消すればいいのか!」と仮になったとしても、「︙で、どうやって?」となってしまう。

これでは欲求の説明をできているとは言えない。たくさんある人間の欲求を5段階にカテゴライズして整理しただけだ。

あとは文化や時代によって欲求の優先順位や内容が変化してしまうということだ。

例えば、日本の終身雇用世代とZ世代の仕事に対する価値観はまさに対照的と言っていいだろう。

1969年、高度経済成長真っ只中の日本。

大企業が「一括採用→年功序列→終身雇用」のモデルを完成させ、数年後の1972年あたりには「就活=終身雇用の約束」と言っていいほど、終身雇用に対する神話は完全に作り上げられていた。

当時の人間からしたら「経済的安全=いかにいい企業に就職するか」だったことだろう。

対して、大企業の大規模リストラや、早期退職募集などのニュースが広がりすっかり「終身雇用神話」が崩れてしまった社会に放り出された現代の若者の「経済的安全」の定義は全く違う。

現代の若者からしたら、

  • 最悪1人でも生きていけるスキルセットがあるか
  • 会社の収入とは別に収入の軸はあるか
  • 資産運用をして何円資産を作れているか
  • SNSのフォロワーが何人いるか

等が「経済的安全」の定義といえる。

これだと、同じ安全欲求が足りないとしても世代によって全く求めている”具体的なもの”が違うということになってしまう。

そうなると当然、その先にある欲求である「承認欲求」の内容もずれてきてしまう。

終身雇用神話を信じていた人たちが承認欲求を抱くときに、その中身は次の

  • どんな企業に就職したか
  • どれくらい月収があるか
  • どんな取引先と関わっているか
  • 部下が何人いるか

的なものになることだろう。

しかし、同じ承認欲求でもZ世代のビジネスマンの場合は

  • どれくらいフォロワーがいるか
  • 収入の柱が何本あるか
  • フリーランスで何円稼げているか

のようになる。

これでは、「経済的安全欲求を解決するための事業を作ろう!」と考えてもクリティカルに顧客が求めていることを導き出すのが難しい。(出来るには出来るが、センスやその人の嗅覚に依存してしまう)

「人間の欲求の本質を理解した」と言うにはあまりにもおざなりだ。

加えて、マズローの欲求5段階で定義されている5つの欲求は「どれか一つをその人は欲しています」という話ではない。

僕もあなたも、あなたの将来の顧客も人間なのだから当たり前のように複数の欲求が”同時に存在してる”。

例えば、安全欲求と承認欲求が同時に混在してるということも当然あり得るし、というか大体の場合はそうだ。

更に、

  • 安全欲求=安定した職業でそのまま波風立てずに生活したい
  • 承認欲求=もっと経済的に成功して周りの人から尊敬されたい

と定義した場合、この2つの欲求の”どちらの方が強いか”という判断も必要になってくる。

”安定重視さん”という人がいたとして、【安全欲求80% 承認欲求20%】のバランスで2つの欲を抱いていたとしたらその人は安定した職業を選び、リスクを嫌う行動をするだろう。

”承認重視”さんがいたとして、【安全欲求20% 承認欲求80%】のバランスで2つの欲を抱いていたとしたら、きっと”承認”さんは起業や転職をするリスクを取っていくことだろう。

これでは、僕やあなたのような起業家が知りたい情報である、

  • ターゲット顧客が本当に求めていること
  • 競合が気づいていない「隠れた欲求」
  • その顧客が一歩踏み出すために必要なトリガー

などがわからない。

あなたも起業をして事業を作り、マーケティングを学べば理解できると思うが、顧客の心理をどれだけ深く理解できるかというのはその事業が伸びるかどうかに大きく影響を与える。

僕が代表を務めるアドネス株式会社のマーケチームともこういった「顧客の心理分析」について何度も試行錯誤を繰り返してきた。

欲求に段階があることがわかっても、顧客の母数が増えれば増えるほどその正確性は落ちていき、クリティカルに顧客が欲しがる価値を与えられているかがわからなくなっていく。

では、どうすればより深く顧客の欲を理解し、より深く需要を貫けるプロダクトを作れるのか。

その研究と研鑽の末にたどり着いたのが「マズローの欲求5段階説 アドネスVer」だ。

企業経営の現場で理論として使い切るには”一歩”足りなかったマズローの欲求5段階説にその”あと一歩”を足そう。

「概念」と「欲求」が「個人の欲求」を創る

”坂口くん”のフェラーリ神話アドネス式マズローの欲求5段階説をより深く理解してもらうために、「承認欲求と”フェラーリ”が結びつく瞬間」の話をしよう。

とある青年がいた。青年を仮に「坂口くん」としよう。

坂口くんは実家がある田んぼだらけの田舎から大学進学を機に東京へ上京した。東京へ出てくるために勉強を頑張ったからか、それなりに偏差値の高い大学へ進学した。

それまで娯楽という娯楽にあまり触れてこなかった坂口くんはすぐに大都会の魅力に飲み込まれていく。

自分と同じように、色んな地方から上京してきた友達。生まれも東京で自分とは違う環境で育ってきた友達。

出自が違い、好みも様々な友人に恵まれた坂口くんはそれまでしたことがなかった様々な遊びを覚えていく。

ナイトクラブで酩酊するまでイェーガーを飲み、初めての”二日酔い”を知った。

「お金がない」と大学の夏休みに友人と一緒に行った長期バイトでは労働の過酷さを知った。

怪しい儲け話を新宿のルノアールで持ちかけられた。

遊びだけじゃなく坂口くんは大学でのサークル活動にも精を出していく。

サークル選びは特に悩むことはなかった。

「なんかイケてて楽しそう!」という理由でダンスサークルに参加した。

そのダンスサークルはいわゆる「パリピサークル」と呼ばれるサークルだった。

当然、そのサークル内だけの飲み会もあるし、長期休みには合宿という名の”飲み会旅行”が企画される。

正直に言うと、ダンスに凄く興味があったわけではない。

「可愛い女の子がいそうだな」という不純な動機もかなりの割合であった。

そこで出会った”野口さん”という少し悪そうな雰囲気のイケてる女の子に坂口くんは一目惚れした。

恋愛経験が豊富だったわけではないが、それなりに東京に慣れてきて、自分なりの「イケてる俺」になっていた坂口くんは勇気を出して野口さんを口説いた。

まずは自然に会話が出来る関係性をどうにか共通の友人を作って構築した。サークルの飲み会があった際には、普段話せないようなことをお互いに話し、更に関係を深くした。

次第に関係は深くなった。学外でも複数人のグループで出かけるようになった。

始めは顔やスタイルで好きになった坂口くんだったが、次第にそれだけじゃなく内面も含めて野口さんにどんどん夢中になっていった。

そしてついに告白をすると決意した坂口くんは大学近くの近年整備されたらしいヤケに綺麗な公園へ野口さんを呼び出す。

結果、玉砕。

「ごめんね坂口君。私、彼氏いるからさ。」

友人たちと一緒に相談しながら考えていた告白のフレーズ。付き合ったらどんなところに遊びに行きたいか。あのスタイルが良い野口さんは恋人にはどんな表情を向けるのか。

ずっと妄想していたそんな「もう存在しない未来」が一気に凍り付き、静かに溶けてなくなるのを坂口くんは感じていた。

その日は、初めての大失恋の傷を癒すべく友人たちの中でも特に仲のいい2人を呼び出し、朝まで飲み明かした。

翌日、二日酔いのせいか、失恋のせいか止まらない胸やけで重い身体を引きずりながら大学へ行くと見慣れない高級車が大学入り口に停車してあるのを見かけた。

「フェラーリってやつかな?」とか何気なくぼんやり見ていると、その車の助手席から出てきた女性がなんと野口さんだった。

昨日と同じ服装と同じ鞄。

きっと昨晩は”フェラーリ”の持ち主である彼と過ごしていたんだろう。

運転席の彼は遠目から見るに、年齢は20代後半くらいだろうか。上品なスーツを着ていて、左腕には金色の時計が付けられているのが見える。

助手席から出ていく彼女を送り出すために出したその男の顔は自信に満ちていた。

激しい嫉妬心と共に、坂口くんは強く思った。

「あぁ、、、俺もあんな高級車を乗り回すイカした金持ちだったら野口さんみたいな子と付き合えるのかな︙。」

と。

このエピソードから坂口くんの中にある欲求とフェラーリという「概念」がどのように結びついたのかを考えてみよう。

坂口くんは大学で出会った野口さんとの失恋という激しい感情体験を経験した。

初めての大失恋で、彼の中では結構長期間に渡って想いを寄せていた相手だったからその衝撃はきっと衝撃的なものだったことだろう。

そんな【まだ正常な精神じゃない状態】で憧れていた野口さんが高級車から出てきたのを見た。

これが坂口くんにとって強烈な「経験」となった。

人間の脳は強い感情体験と同時に起きた出来事を強烈に結びつける性質がある。

結婚式を挙げたホテルに対して夫婦が深い思い入れをするのは「結婚式という一大イベント」と「そのホテル」が結びついているからだ。

今回の坂口くんの例でいうと、”強い感情体験”というのは野口さんをフェラーリ男に奪われるという失恋だ。すなわち、野口さんとの恋愛を通して抱いた「19歳の爆発的な性的欲求」「サークルのカースト上位でありたいという承認欲求」「素敵な恋愛がしたいという社会的欲求」。

これら全てが野口さんが選んだ男性の象徴であるフェラーリに結びついた。

フェラーリを手に入れるということは、坂口くんにとって、野口さんを手に入れることと同義であり、それは大学の仲間からの羨望の眼差しや、野口さんとの熱い夜、素敵な日常生活の全てを手に入れることと等しいのである。

このように「フェラーリに乗りたい!」「フェラーリが欲しい!」という性欲と承認欲求と成長欲求がごちゃ混ぜになった「フェラーリ欲」という強烈な欲が坂口くんの中に誕生する。

こうして一度形成された「坂口くんだけの欲求」はその後の坂口くんの人生を永続的に支配していくことになる。

フェラーリを見たり、他の同じくらい高級な車を見るたびに野口さんを思い出し、この経験を思い出し、様々な欲求が刺激される。

これが、個人の経験が欲求を決定するメカニズムだ。

どんな人の欲求も全て、このようにして整理されていく。

原始的な欲求(マズローのやつ) × 経験による概念との紐付き=個人の欲求

これが欲求の本質だ。

アメリカの刺激的な夜

ここまで話してきて、「あれ、でも欲求について理解したところでどうやって起業に役立つの?」となっている人もいると思うので、”人間の欲求の構造”を知っているからこそ理解できるマーケティングの話を最後にしよう。

イェーガーマイスターというお酒をご存じだろうか。

50種類を超えるハーブとスパイス、果実などを配合し、1934年にドイツで製造が開始されたアルコール度数35%のお酒だ。

新宿、渋谷、六本木などの繁華街で深夜歩いている酔っ払いたちが好んで飲んでいる飲み物で、いわゆる「ショット」なのだが、その始まりは決してそのような明るい雰囲気の飲料ではなかった。

1972年頃、ドイツからアメリカへ流通がスタートされたばかりだったイェーガーマイスター(以下「イェーガー」と表記)は”夜遅くに散歩中の老人が消化促進効果を期待して飲む”お酒として販売されていた。

というのもドイツではそもそも消化薬としてイェーガーは作られたものであるから、当然だ。

あなたがイェーガーを飲んだことがあるならわかるだろうが、日本人流にあの味を表現すると「うがい薬の”イソジン”みたい」な味として知られるイェーガーだが、なんてことはない。”うがい薬”ではないだけで、そもそもイェーガーは薬だったのだ。

冷静に考えたらイェーガーはお世辞にも美味しいお酒とは言えないし、度数も高いしで、ここまで広く親しまれるようなものではないような気がする。(事実、最初は老人が消化を促進するために飲む薬草酒だった。)

そんなイェーガーの今日に至る栄光は1980年代初頭にイェーガー販売会社の社長であったシドニーフランク氏(Sidney E.Frank)が仕掛けた天才的な「概念転換マーケティング」の影響に他ならない。

フランク氏は、当時「老人の薬」だったイェーガーを「バーやクラブの象徴」にまで押し上げる方法を考え、様々な施策を行っていった。

まず、酔って楽しそうにしている”イケてる”男性とイェーガーを一緒に写したチラシを大規模に貼り付けた。

更にはニューヨークのとある大学には1年間イェーガーを無料で提供した。

それだけじゃなく、当時ロックメタルバンドが全盛で流行っていたアメリカで、フランク氏はバンドやフェスティバル、コンサートのスポンサーに入り、イェーガーを「激しいドリンクと反抗の象徴」にした。

更に最も画期的でクレイジーなマーケティング施策として有名なのが「イェーガーレッツ(Jägerettes)システム」と呼ばれる施策だ。

フィッシュネットタイツを履いたセクシーな女性が笑顔でショットドリンクを持ち、各地のバーやイベント、コンサートを巡回したのだ。そこで、男子学生に近寄り(軽く誘惑し)、イェーガーを売り、スプレーガンで男子学生の口に直接イェーガーを噴射して回った。(もちろん、その場にいた叔父様の口にもイェーガーはスプレーされていただろうけど)

この活動自体もチラシやポスターにし、広くPRしていった。

こういったPRの結果、イェーガーは販売本数を急速に伸ばしていったという背景がある。イェーガーは何を売っているのか。

答えは「体験」だ。

イェーガーをありのまま説明すると、どうしても「飲むと理性が吹き飛びドロドロに意識が飛ぶ”イソジン”だよ」と答えるしかなくなるが、イェーガーが提供するのはお酒ではない。

「激しく飲み、刺激的な夜」そのものをイェーガーは売っている。

そのイメージをつけるために、夜のバーやクラブに美しい女性を送り続けたし、ロックメタルの文化にも積極的に入っていった。

きっとバーで美しい女性に直接口にイェーガーを入れられた男子学生たちは、「こんな刺激的な酒があるなんて!!」と衝撃を受けたことだろう。

ロックメタルのバンドを見ながら社会に対する反抗心や行き場のない憤りを抱えていた人々はイェーガーを飲み、”行き場のない憤り”とセットでイェーガーを楽しんでいただろう。

つまり、フランク氏が行ったことは「人々の”刺激的な場”という概念とイェーガーを結びつける」ということだった。

結果、イェーガーという概念に社会的欲求や、承認欲求、性欲が解消された経験が結びついていく。

「~~な最高なイェーガー」が人々の頭の中に完成する。

フランク氏がイェーガーをそのまま「消化促進に効果のあるお酒です!!」と売り出していたらこんなに大ヒットすることはなかっただろう。

本書をここまで読んでくれたあなたならわかると思うが、顧客目線で見た時にイェーガーは個人の欲求が形作られるシナリオをいくつも持っている。

  • 学友と共に休日に夜一緒に飲んだお酒
  • 好きなメタルバンドのライブ会場でそこで初めて会う人たちと飲んだお酒
  • 笑顔が素敵でセクシーな格好の女性が直接口に噴射してくれた日に飲んだお酒

これらはそれぞれの「刺激的な瞬間」と密接に結びついた。

あなたが作る価値をより広げたいと思った時にその概念に顧客のどの欲求を結び付けていけばいいのかを考えると道が開けるだろう。

不幸な人々

ここまでのパートでマズローの5段階欲求と個人の欲求が生まれるメカニズムを理解してもらったが、まだ僕たち起業家が考えないといけないことがある。それは、「人間の幸福感」とは何なのか、ということだ。

欲求パートで理解してもらったのはあくまで「僕たちが何かを欲する仕組み」であり、「人の欠乏感を理解する方法」とも言える。

人には等しく欲求というものがあるが、それは生まれ持った才能や環境、その時々の状況によって抱く欲求は違うということを知ってもらった。

幼い頃に貧しい家庭で育った青年は「お金」というものに人一倍欠乏感を抱くし、裕福な家庭で育った青年がいたなら今度は「愛や繋がり」「その仕事をやる意味」なんかを求める。

物心ついた時から異性に困らなかった男は「見た目だけじゃなくて俺の内面を見てよ!」とかいうかもしれない。見た目が悪い男がそんな男を側から見たら「見た目がいいだけマシだろう。」と軽蔑の視線を送ることだろう。

このように、ここまで説明したものは「個人の経験」から作られる「概念」がマズローの5段階欲求と結びついて個人の欲求が作られるということだった。ここで勘違いしてはいけないのは、欲求はあくまで人を動かす「ガソリン」の役割しか持っていないということだ。

例えば僕たちが仕事をする。その際にどんな欲求を抱いているにしろ、それらの欲求はどれもガソリンの役割しか果たさない。

働かないと食べていけない!(安全欲求)

仕事で出世してもっと友人や女性からチヤホヤされたい!(承認欲求)

この仕事を通して自分が作りたい世界を実現したい!(成長欲求)

のような感じで、結局それらの欲求が元で生まれるアクションは「仕事をする」でしかない。

しかも、これらの欲求のどれを抱いて仕事しているかに優劣もない。

「この欲求は高尚で素晴らしい!」も「この欲求は下劣でいかがわしい!」もない。

人にチヤホヤされるために仕事したっていいし、あなたが作りたい世界、救いたい人たちを救うために仕事をしたっていい。

なぜなら、欲求の解消がそもそも「幸福になれるかどうか」には一切関係ないからだ。

ではここでいう「幸福」とは何なのか。

第一章もいよいよ終盤だ。欲求については十分理解してもらったと思うのでここからは現代社会を生きる僕たち起業家が理解しないといけない「幸福」のロジックを紐解こう。

「物質的豊かさ」と「幸せ」は比例しない

約1000年ほど前の日本。

平安時代の貴族は当時の人口の中でも選ばれた数%だけがなれる存在で、その生活は素晴らしいものだったという。

当時、皇居の門が開かれる時間は午前3時で、門が開かれると同時に大きな音で太鼓が鳴る。当時の平安貴族はその太鼓の音を目覚まし時計代わりに起床するのが一般的だった。

午前3時という時間は夏場でも空が若干白みがかる程度の時間で、冬場だと完全に真っ暗な状態から活動を開始していたことになる。

起きたらすぐ、当時信仰されていた北斗信仰(人の運命は生まれながらの干支で決められるという信仰)の影響で自分の出生にまつわる属星の名前を7つ唱えるところから1日が始まる。

一連の儀式を終えたら手を洗い、爪楊枝で歯を磨き、うがいをして前日の出来事を日記にまとめる。支度を済ませて、午前7時あたりに出勤。

当時の貴族は今でいう政治家のような役割を担っていたので、中央官庁で国政にかかわる書類の決裁などが主な仕事だったらしい。仕事を開始して4時間が経過したころ、豪華な食事の時間が始まる。

ちなみに、この時点で1日の仕事は終了で、現代であったら考えられない”ホワイト”っぷりである。

  • 夜勤という概念もあったそうで、午後から働く人もいたらしいが

食事は綺麗に装飾されたお椀に山盛りで米を盛り、そこに箸を突き立てる。現代であったら行儀が悪い!と叱られるような作法だが、当時はそれが”立体的かつ豪華”に見えるとして好まれていた。

午後は、遊戯に興じる。

中学の歴史の授業で聞いたであろう”蹴鞠(けまり)”である。点数を競って戦うスポーツのようなものではなく、出来るだけ相手が蹴りやすいように心がけて次の人へのパスをしていく遊びだったらしい。

ともかく、夏場のビーチでしか我々が楽しめない”ビーチバレー”のようなものに当時の貴族は毎日興じることができた。

さて、時が過ぎ午後16時になれば最後の食事タイムだ。

昼食と同様に白米と肉や魚、野菜、山菜などを食べる。デザートにはチーズも出るし、なんならかき氷だって食べる。そして気の合う仲間たちとお酒を飲み談笑をする。

午後19時。電気がないから日が沈むと共に就寝しなければいけない。

翌朝、また彼らの贅沢な1日が始まるのだった。

率直に思ったことだけをいうのであれば、現代の一般庶民以下の生活ではないだろうか。

科学や文明、経済の進歩とは恐ろしいもので、1000年の月日は「当時の特別」を「今の普通以下」にまでしてしまう。この1000年間で人類の物質的豊かさは1000倍以上にも拡大した。

僕たちは電気を発明しているから夜いくらでも起きていられるし、街は何時になっても夜を照らし続ける。豪華絢爛な茶碗や食器がなくても、十分清潔な食器を数百円で買える。チーズやかき氷もその気になればいつだって食べれる。食事だって、僕たちは海外から伝わってきた様々な食に触れることができるし、たった数百円払えば「早い!安い!美味い!」牛めしにありつける。

ビーチバレーを夏場のビーチでしかしないのは、日常には更に僕たちを魅了してくれる娯楽があふれているからだ。

スマホを開けば無料で、無限に見れるYouTubeがある。各種SNSを開いてみれば、知り合いの日常や有名人の不祥事だって流れてくる。

イーロンマスクが買収し、Xに社名を変更した旧Twitterも買収の影響だろうか。異様にアダルトコンテンツの規制が緩くなり、もはや”裏山で拾ったエロ本”なんかよりもはるかに刺激的なコンテンツが自分から求めていなくても流れてくる。

理不尽な法律も、民主主義に社会様式が変わった影響で目立ったものはない。もちろん、現代政治にも問題は多数あるが江戸時代の日本のように「立場が上の人が社会的に弱い立場の人を斬り殺しても問題ない」なんて法律はない。生きていく中でほぼ全ての人が「命の危険」を感じることもなくなった。

米がない!なんてニュースが流れることがあっても、本当に米が食えないみたいなことは今のところはない。

せいぜい、「外国産はいやだ!日本の米がいい!」と言ってるくらいのもので、そもそも当時の平安の時代を生きていた人たちは”外国の米”を食うことすらできない。日本で米が採れなくなったら、貴族でも粟を食べることになる。

更にはAIの進歩、医学の進歩、宇宙開発が進んでる現代は誰しもが世界をリードするエリートたちの技術開発に関するニュースを聞いて近い将来へ思いを馳せることができる。

産業革命が起きるまでの人々が現代を見たら「同じ星の出来事」だと思えるかすら疑わしい。

更に「1000年の変化」どころか、今は10年も経過すれば社会は恐ろしいほどに変化する。

AIとの日常的な会話を全ての人が享受できることも、

現金を持ち歩かずにカードやQRコード片手に街を歩くことも、

通信料金を気にせずに電車の中でYouTubeを見ることも、

遠方のクライアントに足を運ばずZoomで会議をすることも、

Uber Eatsで自炊せずに家から一歩も出ずに食事をすることも、

全て、2015年にはなかった。

信じられるだろうか。僕たちが生きている現代は”ただ生きているだけで”加速度的に娯楽も生活も進歩していく。

10年前。AISFだった。

だが、今は必需品として多くの人の生活に根ざし始めている。広く普及して、まだたったの数年だ!信じられない!イノベーションはあっという間に広がっていく。

その気になれば、外出を一切せずに食事や買い物、仕事、娯楽。果てには人間関係まで、すべてネットで完結できる時代だ。

物質的豊かさはもちろん”人類史上最高地点”だ。そしてこの物質的豊かさは今後更に拡大していく。

もし仮にロボットがより精度高く動けるようになり、そこに今よりもはるかに進化したAIをインストールして”労働力”を人間以外が担えるようになったらどうなるだろう。

”働く”という言葉の意味も変わってきそうだ。

現代人が唯一平安貴族に負けている”ホワイトな職場環境”すらどうせあと何年か、何十年かしたら解決されてしまう。

仕事をすることなく、娯楽に溢れ、美味しい食事を食べ、自由に生きる。そんなことが”当たり前”になる日は想像を遥かに超えるスピードで現実になるだろう。

けれど、そんな社会を生きていても僕たちは、未だ「幸せ」にはなれていない。

「足りすぎている」のにも関わらず「まだ足りねえんだよな」と言い、幸福度は上がらない。

少しだけ見えてきた。

どうやら、幸福度は物質的豊かさとは関係ない場所にあるようだ。

世界一幸せな国、ブータン

経済的豊かさ、物質的豊かさの指標としてよく使われるものに「GDP」というものがある。情報系のニュース番組や諸外国との関係性がどう、みたいなニュースを見れば度々目にすることになる単語だが、意味は「国内総生産」だ。

このGDPは国民の人数に対して多い!とか、先進国の中でアメリカがダントツで高い!とかそういう話を聞いたことがある人も多いはずだ。

さて、そんなGDPをいかに高めるか、いかに諸外国と比べて豊かな国を作るかで先進国が躍起になっている国際社会において、一国が異議を唱えた。

その国の名は、ブータンだ。

ブータンの第四代国王ジグメ・シンゲ・ワンチュク氏は「物質的豊かさよりも幸福度が高いかのほうが大事!」という主張を広げ、GDPではなく「国民総幸福量(Gross National Happiness)」という指標を立てた。

結果、ブータンは先進国と比べても貧しい国であるにも関わらず、国勢調査において国民の約97%が「幸福だ!」と回答している。

これは実に驚異的な数値で我らが日本の内閣府が行った「国民生活に関する世論調査」によると、「満足」「まあ満足」が52%。「やや不満」「不満」が43%となっている。

日本はおよそ2人に1人が「いやぁ、不幸っすね」と言っているのだ。これはブータンの幸福度が高くて凄いという話でもあるが、日本が取り立てて低いという話でもある。

話を戻すが、ブータンという国がどのような国かというと、一言で言えば「宗教大国」である。実際にブータンでは国教としてチベット系仏教(大乗仏教)が広く信仰されている。

更にブータンでは日本や先進国ほど「資本主義」が重視されているわけでもなく、お金を払わずとも村の中でのやり取りや、自分の畑で採れた野菜だけで生活できるといった形の超一次産業国でもある。

なんと、ブータンの農家や農業に関わる就労人口は全体の4割から5割にも上る。ブータン人の2人に1人は農家なのだ。

そんなブータンの幸福度が他国と比べて異様に高い要因の一つとしてやはり外せないのが仏教からくる「中道の思想」だ。

簡単に説明すると、「極端を避け、バランスを取ることが大事である」という教えで、国民は一人一人がこの中道の考え方に従い、”充足”を目指し、国家は人々の生活を支える。

この相互関係がブータン社会の幸福度の核だ。

極端に言えば1万年以上続いたとされる縄文時代の生活にちょっとだけ便利な道具とかが追加されたような生活と言えるだろう。

生活はのどかで、地域コミュニティでの繋がりを大事にし、国民全体が一つの教えの元共通のスローガンに向けて日々汗を流し働く。家に帰れば温かい家庭があり、夜陽が沈むのと同時に寝る。

素晴らしい生活だが、1999年以降ブータン社会に近代化の波が迫ってくる。

最初に押し寄せてきたのはテレビ放送とインターネットだ。

2000年代に入り、テレビの放送が開始するとブータンのテレビではインドやその他の海外の番組も視聴ができるようになっていく。

それに続いて携帯電話の普及率も一気に上昇していき、2006年時点では携帯電話の加入率が12.7%だったのに対して2020年にはほぼ100%にまで普及した。

その結果ブータンの農村に住む人々にとてつもない衝撃が起きた。

「外の世界の豊かな暮らし」を認知してしまったのだ。

それまで同じ村内でしか比較対象がなかった人々が徐々に首都ティンプーの都会生活や、外国の大都市での暮らしまで目を向けるようになった。

「充足(足りていること)」を目標に生きていた人々はついに「足りない」という概念を得てしまった。

しかし、それでも長年培ってきたブータン独自の価値観や文化がすぐに消えるなんてことはなかった。

証拠に、2011年の時にブータンのとある農村に住む若者にインタビューをしたところ、「テレビで見た製品が欲しくなることもあるが、夢に過ぎない。テレビの中のことは全部フィクションだと思っているよ」と答えたそうだ。

しかし、その後も海外資本のブータンへの参入やより経済が成長していく影響で所得が増えていくと少しずつだが確実にブータンの都市部には変化が起きていった。

今までは個人商店のようなところを何軒も回って買い物をしていた生活から、スーパーマーケットに行けば日用品が全て買えるようになった。

少し栄えたエリアを歩けば海外の最新ファッションに身を包んだマネキンがないはずの目で自分を見つめてくる。

見たこともない外国の料理を扱うレストランも増えた。オシャレなカフェもできた。

しかし、それらはブータン人にとって無縁の存在だった。

ブータンは2000年代頃から宗教教育と家庭教育だけではなく、しっかりとした初等・中等教育を普及させようと動き、その後の十数年で飛躍的に国民の識字率を上げた。

高度教育が普及したことによってブータンの若者たちはホワイトカラー職や官公庁へ勤務することを望み始める。家族にとっても教育とは我が子をはじめとする家族が貧困から抜け出す希望でもあったが、教育に経済が追い付かなかった。

高学歴失業者が増えていたのだ。

経済が発展していても所得が上手く増えていかない、仕事がない。

そんなブータン人は街で見かける外国からやってきたお店に縁がなかった。2011年に「テレビの中のことは全部フィクションだと思っている」と答えた彼も、きっともう「憧れるだけでは満足できない」と思っていることだろう。

ブータンの人々にとって本当の意味で幸せだったのは今と昔どちらだったのだろうか。

もちろん近代化の影響で生活は豊かになり、それまで知ることができなかったものも知れて、生活の質は上がったことだろう。

だが、幸福感というものが完璧に主観のものであるとするならば、「手に入らないものを知る」ということはもしかしたら得ていたはずの幸福を手放すものなのかもしれない。

欲求について解説してきたパートでも話したが個人の欲求というのは「経験」からくる「価値観」によって生まれる。

ブータンの農村に住んでいる青年が「テレビやSNSを通して外国の自分と同じくらいの年齢の子が最新型ゲーム機をプレイしながらクーラーの効いた部屋でコーラ片手に自由時間を楽しむところを見た」経験をしなければ彼は変わらない生活を送れたはずだ。

そんなものを知ってしまったから、「田舎で農業に励み、どれだけ暑くても仕事をしなければいけない自分」という価値観ができてしまうんだから。

ただ、勘違いしてほしくないのはこの話を通して伝えたいことは何も、「無知であれば幸福になれるよ」なんて話ではない。

当然、この本を書いている僕も、この本を読んでいるあなたも今現在知っていることや、憧れているものを忘れることはできないし、一度経験してしまい植え付けられた個人の欲求は消せない。

欲求に良いも悪いもないから、僕たちが考えないといけないのは、また別の話だ。

このブータンのエピソードから僕たちが学ぶべき教訓は、「貧しくても満たされることはあるし、豊かでも不足することはある」という現代資本主義の根底に静かに広がっているパラドックスを理解することだ。

ブータンがそうだったように、比較対象が生まれることで人は簡単に目の前の幸せを失うことができるようになる。年収1000万円の人間がいたとして、社会一般でみて「豊かな人」だったとしてもその人の周りが年収3000万円以上の人しかいないのだとしたら彼はきっと「自分はお金がない」と思うだろう。

世の中の多くの人が勘違いしている。

お金があれば幸せ?安定があれば幸せ?やりたいことが自由にできれば幸せ。本当にそうだろうか?

お金があってもやりがいや一緒に頑張れる仲間に恵まれなかったら不幸に感じることだろう。

安定していても、刺激がなく挑戦心を刺激してくれる壁が目の前になかったらその生活は彩りを失うだろう。

やりたいことがなんでも叶うのが幸せなら、チートで最強になったゲームをすぐにプレイしなくなってしまうのはなぜなんだろう。

幸福を追求するにあたって僕たちはいくつもの”見えない要素”を無視してる。そんな僕たちが日々生きる中で忘れがちな幸福の必須条件を明確に示してくれた理論がある。

そんな僕たちの疑問に答えを出そうとしている人たちが、揃って口にするキーワードがある。”Well-being”だ。

Well-being 良く在ること

「人が幸福になるには、どうすればいいのか?」

この問いに、20世紀の心理学者は答えを持っていなかった。当時、第二次世界大戦が終戦した時代の心理学に課せられた役割は全く違うものだったからだ。

1945年頃、激しい戦争のトラウマを抱え、PTSDを抱えた退役軍人が”アメリカだけで”40万人以上いた。他にも、うつ病や統合失調症、不安障害などで苦しむ多くの人々。精神医学や心理学の急速な実用化が必要とされた時代背景でもあった。

だからこそ、傷ついた人々の精神を健康にするために、当時の心理学者はそれぞれのアプローチを取って問題を解決しようと試みてきた。

例えば、欲求について解説したパートでも出てきたフロイトは、無意識での葛藤や抑圧が神経症を生むと考えていた。だから、無意識でその人が何を欲しているのかを分析するために様々な治療を行ってきた。(例えば、夢の内容を記録・分析して、患者の潜在意識を分析したり)フロイトは、患者の苦しみをどのように取り除くか?という課題に向き合ってきた心理学者であった。

他にも行動主義心理学と、行動療法を軸にアプローチを取ったのが、ワトソンとスキナーだ。例えば、深刻な精神病患者を精神科病棟に入院させ、行動を管理したり、段階的に恐怖心を吐き出させることで、患者の恐怖を軽減させた。すべては「問題行動をどう消去・修正するか」というアプローチで治療をしていった。

それらの動きと並行して、1950年代は薬物療法の発展も凄まじいスピードで進んでいった。統合失調症の治療薬・抗うつ薬の発見や開発に加え、抗不安薬の社会への普及。

戦争や社会情勢が生み出した多くの患者の症状を薬物で抑え、心理療法で根本的な解決を目指す。

20世紀の心理学というのはそういうものだった。決して「更に良く在るためには?」という前向きなものではなく、心理学の目が向いているのは、あくまで「−10点を0点に戻す」ことだったのだ。

そんな心理学の世界に変化が訪れたのが、第二次世界大戦が終戦して約50年が経った1998年。心理学は新たな目的を掲げたのだ。

アメリカ心理学会(APA)の会長に就任したマーティン・セリグマン。心理学界の偉人だ。セリグマンは「学習性無力感」研究の第一人者だった。 犬に逃れられない電気ショックを与え続けると、やがて逃げることを諦める 。そんな実験で、うつ病のメカニズムを解明してきた。つまり、彼自身も「病理」を研究してきた心理学者の1人だった。

しかし、会長に就任してからのスピーチで彼は言った。

「心理学は第二次世界大戦後、何をしてきたのか?」「私たちは、壊れたものを直すことに専念してきた」「ダメージの修復ばかりをやってきた」「しかし︙それだけでいいのか?」

会場には”壊れたものを直すことに専念してきた心理学者”が大勢いる。

「心理学には、もう一つの使命があったはずだ」「人間の強み、美徳、よく生きることを科学すること」「私はこれを"Positive Psychology(ポジティブ心理学)"と呼ぶ」

この宣言は、賛否両論を巻き起こした。

「また新しい流行か」という冷ややかな声。 「これこそ心理学の未来だ」という熱狂的な支持。

批判的な声も多かったらしいが、ポジティブ心理学という概念を彼は推し進めていった。

1998年以前、「幸福」や「強み」に関する研究論文は年間数十本程度だった。 しかし、この宣言を機に状況は一変した。2000年代に入るとポジティブ心理学に関連する研究論文が、年間数百本、そして数千本へと爆発的に増加していったのだ。

心理学は、新しい時代に入った。2000年代に入り、ようやく多くの心理学者が”より幸福になるための”研究を始めた。

昨今よく耳にする「Well-being」という言葉はこうして生まれた。では、2025年現在に至るまでどのような理論が提唱されてきたのか。

そんなポジティブ心理学(Well-beingの実現)に対する、3つの主要アプローチを紹介したいと思う。

マーティン・セリグマン:PERMA理論

セリグマンは1998年から2011年まで約13年間、一つの問いを追い続けた。「Well-beingとは、何なのか?」彼は世界中の幸福データを分析し、哲学者や宗教家が何千年も語ってきた「良き生」を、科学の土俵に乗せようとした。測定可能にし、再現可能にし、誰もが実践できるようにすること。それがセリグマンの目的だった。ポジティブ心理学という概念を生み出し、Well-beingというスローガンを掲げたセリグマンが提唱したPERMA理論は多くのメガテック企業で採用され、そして組織内の幸福度を上げた。幸福は、5つの要素から構成される。その5つの要素を頭文字にした理論がポジティブ心理学において最も有名な理論。PERMA理論だ。PERMA理論の5つの要素は以下の通り。

P:ポジティブ感情

E:エンゲージメント

R:人間関係

M:意味・意義

A:達成

これら5つの要素が満たされたときに、Well-beingは達成される。というのがセリグマンの主張だ。では、この5つの要素を一つずつ見ていこう。

ポジティブ感情

喜び、感謝、希望、愛、満足、誇り。日常の中で感じるポジティブな感情のことだ。セリグマンが発見したのは、ポジティブ感情が単なる「気分の良さ」ではないということだった。ポジティブな感情は、思考を広げる。創造性を高める。人生の選択肢を増やす。不安や恐怖は視野を狭める。目の前の脅威だけに集中させる。しかし喜びや希望は、視野を広げ、新しい可能性を見せてくれる。ポジティブ感情は、人生を豊かにする「入り口」だ。

エンゲージメント

何かに完全に没頭している状態。仕事に、遊びに、創作に、我を忘れて没頭する瞬間のことだ。エンゲージメントの瞬間、人は自己意識を失う。「うまくできているだろうか」「他人にどう見られているか」といった雑念が消え、活動そのものと一体化する。この状態をセリグマンは「フロー」と呼んだ。そして、この没頭体験こそが、最も深い満足感をもたらすと主張した。お金を稼ぐためでもなく、誰かに褒められるためでもなく、ただその活動に没頭している時間。それが人生の中にないというのは非常に味気ない。

人間関係

他者との良質なつながり。セリグマンの研究によれば、人生で最も幸福な瞬間のほとんどは、他者と共にある時だという。一人で味わう喜びよりも、誰かと分かち合う喜びの方が、遥かに大きい。孤独は、不幸の最大要因だ。どれだけお金があっても、どれだけ成功していても、信頼できる人間関係がなければ、人は幸せになれない。人間は、社会的動物だから。

意味・意義

自分より大きな何かへの貢献。人生の目的。使命感。セリグマンは、意味のある人生をこう定義した。「自分を超えた何か(家族、コミュニティ、国家、あるいは大義)に属し、貢献していると感じられる人生」自分だけのために生きる人生は、空虚だ。しかし、自分より大きな何かのために生きる人生は、深い充実感をもたらす。

「これが自分の使命だ」という感覚。それが、人生に意味を与える。

ちなみに僕の場合だと、「全人類をWell-beingなギバーにする」というのが”人生における意味・意義”だ。全ての事業がこのビジョンを現実にするためのアクションとしてつながっている。

達成

目標を達成すること。成長を実感すること。昨日より前進している感覚。セリグマンが強調したのは、”達成”自体が目的になり得るということだった。誰かに褒められなくても、お金にならなくても、「やり遂げた」という感覚そのものが幸福をもたらす。登山家が命がけで山に登るのはなぜか?お金のためではない。達成それ自体が、報酬なのだ。人間は、成長する生き物だ。停滞は苦痛であり、前進は喜びだ。決して結果が出る前であろうとも、何か一つのことをやり切る、一つのプロジェクトを無事完遂させる、この原稿を書き切る。これらは、それだけで僕たちに幸福感を与えてくれる。

PERMA理論の革新性

セリグマンがPERMA理論を通して成し遂げたのは、幸福の「全体像」を初めて示したことだった。従来の幸福研究は、どちらか一方に偏っていた。「快楽」を追求する研究か、「意味」を追求する研究か。しかしセリグマンは「どちらも必要だ」と主張した。ポジティブ感情も、エンゲージメントも、人間関係も、意味も、達成も。それらすべてが幸福を構成する。どれか一つが欠けても、完全な幸福は得られない。さらにセリグマンは、PERMA診断ツールを開発した。各要素を数値化し、自分の幸福の「現在地」を知れるようにした。これにより、幸福は「なんとなく感じるもの」から「測定し、改善できるもの」へと変わった。グーグルは、社員のエンゲージメントを高めるオフィス設計にPERMA理論を活用した。多くの企業が、PERMAに基づく組織開発プログラムを導入している。教育現場では、ポジティブ教育としてPERMAを軸にしたカリキュラムが世界中で展開されている。セリグマンは、幸福を「特別な人だけが手に入れる宝物」から、「誰もが測定し、実践できる科学」へと変えたのだ。

エド・ディーナー:主観的Well-being

セリグマンが「幸福とは何か」を5つの要素に分解した一方で、別の研究者は全く違うアプローチを取った。エド・ディーナー。「Dr. Happiness(ドクター・ハピネス)」の異名を持つ男だ。彼が50年以上の研究人生で追い続けた問いは、こうだった。

「幸福は、測れるのか?」

セリグマンのアプローチは「幸福とは何か?」を定義することだった。5つの要素に分解し、PERMAという枠組みを作った。対してディーナーのアプローチは「幸福をどう測るか?」に特化していた。主観を数値化し、科学的に検証可能にする。この違いは決定的だった。セリグマンは「地図」を描いた。幸福という領域の全体像を示した。ディーナーは「物差し」を作った。その幸福がどれくらいあるのかを測れるようにした。当時、幸福研究における最大の批判はこうだった。

「幸福は主観的なものだから、科学的に研究できない」「人それぞれだから、一般化できない」「測定できないものは、科学ではない」

ディーナーはこの批判に真正面から挑んだ。

「主観的なものこそ、科学する価値がある」。

そして彼は、50年の研究人生をかけて、幸福を測定可能にした。ディーナーが辿り着いた答えはシンプルだった。幸福は、3つの要素で測定できる。一つ目は、人生満足度。自分の人生を総合的にどう評価するか。「もし人生をやり直せるとしても、ほぼ同じ人生を選びますか?」この問いへの答えが、その人の幸福度を示す。これは感情ではなく、認知的な評価だ。その瞬間の気分ではなく、人生全体への評価。二つ目は、ポジティブ感情の頻度。喜び、楽しさ、誇り、愛情、感謝。ポジティブな気分をどれだけ頻繁に感じるか。ディーナーが発見したのは、「強度」ではなく「頻度」が重要だということだった。時々ものすごく幸せよりも、毎日ちょっと幸せの方が、幸福度は高い。日常的な小さな喜びの積み重ねが、幸福度を高める。三つ目は、ネガティブ感情の低さ。不安、悲しみ、怒り、恥、罪悪感。ネガティブな気分が少ないこと。ただし、完全にゼロである必要はない。適度なネガティブ感情は正常だ。しかし、慢性的に高いと幸福度が下がる。この3つを数値化することで、ディーナーは幸福を「なんとなく感じるもの」から「測定できるもの」へと変えた。これがディーナーの革命だった。ディーナーは測定ツールを武器に、世界中のデータを集めた。数十万人規模の調査。数十年にわたる追跡調査。そして、いくつかの貴重な発見をした。まず、お金と幸福の関係。結論は明確だった。年収と幸福度は、ある程度まで相関する。しかし年収7万ドル(約1,000万円)を超えると、ほぼ頭打ちになる。

「お金で幸せは買えない」これは単なる格言ではなく、科学的事実だった。

ただし重要な補足がある。貧困は明確に不幸を生む。お金がないと不幸になる。お金があることは幸福を保証しない。次に、遺伝の影響。幸福度の約50%は遺伝で決まる。生まれつき幸せになりやすい人、なりにくい人がいる。これを「幸福のセットポイント」と呼ぶ。しかし、希望もある。残り50%は変えられる。環境、行動、考え方で改善できる。そして、適応の罠。人間は良いことにも悪いことにも適応する。宝くじに当選しても、1年後には幸福度が元に戻る。重大な事故に遭っても、数年後には幸福度が回復する。これを「ヘドニック・トレッドミル(快楽の踏み車)」と呼ぶ。どれだけ良いことがあっても、すぐに慣れてしまい、さらに良いものを求めてしまう。しかし例外もある。失業、慢性痛、孤独。これらは長期的に幸福度を下げ続ける。これらの発見は、幸福についての常識を覆した。ディーナーは、データという武器で、幸福の真実を暴いた。ディーナーが成し遂げたのは、幸福の「民主化」だった。それまで、幸福は哲学者や宗教家が語るものだった。個人の内面の話であり、科学の対象ではなかった。しかしディーナーは「幸福は測定できる。そして測定することで、改善できる。」と50年もの間主張し、研究し続けた。この主張は、幸福を「特別な人だけが考えるもの」から「誰もが測り、改善できるもの」へと変えた。ディーナーの測定方法は、世界中に影響を与えた。国連の「世界幸福度調査」は、ディーナーの理論に基づいている。ブータンの「国民総幸福量(GNH)」も、ディーナーの助言を受けて作られた。企業も変わった。社員満足度調査、組織の健康度測定。これらはすべてディーナーの測定方法に基づいている。ディーナーは、幸福を「なんとなく感じるもの」から「測定し、比較し、改善できるもの」へと変えた。セリグマンが「地図」を描いたなら、ディーナーは「物差し」を作った。そしてその物差しは、世界中で使われている。ディーナーの思想の核心は、こうだった。

「人生の客観的状況」ではなく、「本人がどう感じるか」が幸福だ。年収1億円でも不幸な人はいる。年収300万円でも幸せな人はいる。主観的評価こそが、その人の現実だ。

だから、測るべきは客観的な状況ではない。その人が「どう感じているか」だ。ディーナーは、データに語らせることを徹底した。個人的な価値観を押し付けない。「こうあるべき」ではなく「こうである」を示す。科学者としての誠実さだった。そして彼は、自らこう語った。

「幸福を研究することで、自分も幸せになった」

ディーナーは、幸福研究者であると同時に、幸福な人間だった。2023年3月28日、メリーランド州ベルツビルの自宅でディーナーは静かにその人生に幕を下ろした。享年102歳であった。

ミハイ・チクセントミハイ:フロー理論

セリグマンが幸福の「全体像」を示し、ディーナーが幸福の「測定方法」を確立した。そして三人目の研究者は、幸福の「瞬間」を科学した。ミハイ・チクセントミハイ。「時間が消える瞬間」を追い続けた男だ。彼が生涯を捧げた問いは、こうだった。

「なぜ、ある瞬間だけ、時間を忘れるほど没頭できるのか?」

1960年代後半、チクセントミハイはアーティスト、チェスプレイヤー、外科医、ロッククライマーを調査した。職業も背景も全く違う彼らに、ある共通点があった。

「時間を忘れるほど没頭している瞬間」

画家は、数時間が数分に感じると語った。チェスプレイヤーは、周囲の音が消えると言った。外科医は、手術中に自己意識が消えると証言した。この状態を、チクセントミハイは「フロー(Flow)」と名付けた。フロー状態とは、完全に没頭している状態のことだ。活動と意識が一体化する瞬間。「ゾーンに入る」「無我の境地」とも呼ばれる。この瞬間、人間は自己意識を失う。「うまくできているだろうか」「他人にどう見られているか」といった雑念が消える。時間感覚が変わる。数時間が数分に感じる。一瞬が永遠に感じる。そして、活動そのものが報酬になる。お金のためでも、評価のためでもなく、その活動に没頭すること自体が喜びになる。チクセントミハイは、何十年もの研究を通して、フロー状態が生まれる条件を特定した。その中で最も重要なのが、「挑戦とスキルのバランス」だ。挑戦が高すぎると、人は不安を感じる。初心者がプロと対戦するような状況。「自分には無理だ」という恐怖が、没頭を妨げる。挑戦が低すぎると、人は退屈を感じる。プロが初心者と対戦するような状況。「簡単すぎる」という退屈が、集中を削ぐ。しかし、挑戦とスキルが均衡している時(ギリギリの挑戦に立ち向かっている時)人はフローに入る。ここにチクセントミハイの重要な発見がある。フローは「快適」ではない。フローは「ギリギリの挑戦」の中にある。人間は、少しだけ難しいことに没頭する。そして、このフローには魔法のような性質がある。フローを経験すると、スキルが上がる。スキルが上がると、以前の挑戦が簡単になる。簡単になると、退屈を感じる。退屈を感じると、より高い挑戦を求める。より高い挑戦に挑むと、新しいフローに入る。このサイクルが、人間を自然に成長させる。停滞は苦痛であり、成長は喜びだ。フローを求めることが、成長を生む。チクセントミハイは、もう一つ重要な発見をした。幸福と快楽は、違う。快楽は受動的だ。美味しいものを食べる。テレビを見る。消費する。すぐに慣れる。一時的な満足しか与えない。フローは能動的だ。楽器を演奏する。プログラミングする。スポーツをする。創造する。成長する。深い充実感を与える。チクセントミハイの調査によれば、収入とフロー頻度に相関はない。社会的地位とフロー頻度にも相関はない。お金や地位では、フローは生まれない。フローを生むのは、趣味、仕事(ただし没頭できる仕事)、スポーツ、創作活動。幸福度が高い人は、フローを頻繁に経験している。フローを経験できる活動を持つことが、幸福の鍵だった。チクセントミハイの理論は、世界中に影響を与えた。ゲーム業界は、フロー理論をデザインの基盤にした。「挑戦とスキルのバランス」を徹底的に追求し、プレイヤーを没頭させる。難易度調整システムは、すべてフロー理論に基づいている。スポーツ界は、アスリートの「ゾーン」をフロー理論で理解した。メンタルトレーニングに応用し、最高のパフォーマンスを引き出す方法を確立した。教育現場は、生徒がフローに入る授業設計を追求し始めた。「少しだけ難しい課題」の重要性。ゲーミフィケーションの理論的基盤。企業は、社員のエンゲージメント向上にフロー理論を使い始めた。仕事の設計。挑戦とスキルのバランス。創造性を引き出す環境づくり。チクセントミハイは、幸福の「瞬間」を科学した。セリグマンが「地図」を描き、ディーナーが「物差し」を作ったなら、チクセントミハイは「幸福の瞬間」を顕微鏡で覗き込んだ。チクセントミハイの思想の核心は、こうだった。

「幸福は、追求するものではない。完全に没頭した時の副産物だ」

快楽を追求しても、幸せにはなれない。お金や地位を追求しても、幸せにはなれない。しかし、フローを経験できる活動を持つことができれば(時間を忘れるほど没頭できる何かを持つことができれば)人は幸せになれる。チクセントミハイの人生は、波乱に満ちていた。第二次世界大戦中、幼少期をイタリアの捕虜収容所で過ごした。戦争で多くを失った。この経験が、彼の根源的な問いに繋がった。

「人はどうすれば、困難な状況でも幸せになれるのか?」

スイスでカール・ユングの講演を聞き、心理学に魅了された。1956年、アメリカに移住して心理学を学んだ。そして彼は、答えを見つけた。困難な状況でも、フローを経験できる活動があれば、人は幸せになれる。チクセントミハイは、温和で思慮深い人物だった。芸術を愛し、音楽を愛し、登山を愛した。彼自身が、フローを頻繁に経験する人間だった。

「幸福は追求するものではなく、完全に没頭した時の副産物」(この言葉を、彼は人生で体現した。)

2021年10月20日、カリフォルニア州クレアモントの自宅でチクセントミハイは静かにその人生に幕を下ろした。享年87歳であった。彼が遺したフロー理論は、今もなお、世界中の人々を没頭させ続けている。かくいう僕も、毎日四谷四丁目にあるオフィスにあるデスクで毎日朝から晩まで仕事に没頭している。1年間ヒモとして活動していた時よりも圧倒的に幸福な毎日を過ごしている。

アドネス式Well-being理論

ここまで紹介した、セリグマン、エド・ディーナー、ミハイが提唱してきた理論はどれも素晴らしい。

短期的な快楽や大勢の人が無意識に抱いていた幸福に対する虚構をPERMA理論は打ち壊した。ポジティブな感情だけでなく、それ以外に4つも人を幸福にする要素があることを明確化してくれた。

エド・ディーナーは、幸福を相対的なものではなく主観的なものであると捉え、極めて主観的で計測が不可能な”幸福度”を測れるようにした。収入と幸福度の相関も多くの人を研究し、「年収1000万円以上になれば幸福度は上下しない」という資本主義社会を生きる僕たちに重要な視点を与えてくれた。

ミハイ・チクセントミハイは人間が極度の集中状態に入ったときに幸福を感じるという事実を誰よりも深く研究した。

しかし、これらの理論には、共通する限界がある。

”抽象的すぎて、実行できない。”のだ。

PERMA理論は「ポジティブ感情を増やしましょう」と教えてくれる。しかし「どうやって?」という問いに答えてくれない。

ディーナーは「年収1000万円を超えると幸福度は頭打ちになる」と発見した。しかし「では、どうすればいいのか?」は語られていない。

チクセントミハイは「フロー状態に入れば最高だ」と教えてくれる。しかし、僕たちはフロー状態に入ることができなくて困っている。

まさに「君たちはどう生きるか」と問われているような気持ちになる。そして残念なことに多くの人は「どう生きるかわからなくてその本を読んでいる」場合が多いので、そこで投げ出されても困ってしまう。

つまり、これらの理論はあくまで"診断"であって、"処方箋"ではない。ポジティブ心理学は幸福を追求する上で、非常に有効なアプローチだ。僕自身、自分の幸福を追求するために様々な理論から多くの教えを受けてきた。

だがその反面、僕はずっと考え続けてきた。

「どうすれば、もっと多くの人が実践できるようになるのか?」

僕は本業がビジネスマンだ。だから「実践的であること」を何よりも重視している。そんな僕がポジティブ心理学を学び、自分の経験から"今まさに必要"な理論を作った。

名前を付けるなら、「アドネス式Well-being理論」が相応しいだろう。

アドネス式Well-being理論は、完璧に"処方箋"としての役割を担う。

現に、アドネス株式会社を設立してから4年。全くのゼロから、年間20億円規模の会社を作った。

そんな会社を支えているスタッフの多くは入社時、業界未経験の完全な素人だった。だが、アドネスに入って数年経つと、多くのメンバーは第一線級の強者に様変わりする。なぜか?

これも全ては、アドネスが作り上げてきた「環境」だ。環境とは、いわば思想だ。

アドネスが掲げてきた思想を体系化したものを、第1章の最後に、あなたに伝えたい。

それが、「アドネス式Well-being理論」だ。

アドネス式Well-being理論の5つの要素と2分類

アドネス式Well-being理論では、幸福を形成する要素を5つ定義している。そして、更にそれを2つに分類し、整理するという形をとっている。この「5つの要素を2つに分類」というのがアドネス式Well-being理論の大きな特徴と言える。

理論的に最も近いのはPERMA理論だ。(というより、PERMA理論もアドネス式Well-being理論も幸福を体系的に科学しようという目標が同じなので似たような形になっただけという方が正しい)

アドネス式Well-being理論の5つの要素は以下の通り。

①欲求の解消

②関係性

③意義性

④没頭

⑤成長実感

PERMA理論は、「ポジティブ感情」「没頭」「人間関係」「意味」「達成」だがアドネス式だと、「ポジティブ感情」ではなく「欲求の解消」になっている。

  • 詳しい理由はこの後で

PERMA理論との主な違いでいうと、それが1つ。あと1つは、「5つの要素を2つのグループに分類している」ということだ。

分類は非常にシンプルで、「長期的に積み上げることで満たせる要素」と「今この瞬間に気の持ちようで満たせる要素」だ。

欲求の解消と、関係性に関しては実は切っても切り離せない関係にある。また、欲求の解消というのは気の持ちようでなんとかなるものではない場合が多い。

対照的に、意義性・没頭・成長実感の3つは今この瞬間の気の持ちようで満たすことができる。だから、アドネス式Well-being理論を説明する際には、①欲求の解消+関係性、②意義性+没頭+成長実感の2つの軸で進めていきたいと思う。

①欲求の解消+関係性

まず、幸福であるためにはどう足掻いても欲求の解消は必要だ。これに異論がある人はいないと思う。

ここでいう”欲求”とは第一章前半にて解説したマズローの欲求5段階のことを指すが、想像してみて欲しい。

生理的欲求も、安全欲求も、社会的欲求も、承認欲求も、成長欲求も。何一つ叶っていない人がいたとして、その人は幸せなのだろうか。

食べたいものが食べられない、心を許せる友人やコミュニティがない、どこに行っても自分を認めてくれる人がいない。SNSを見ると自分よりも若くして大金を稼いでる人がいる。身の回りにも、自分ができないことを難なくやってのける人がいる。自分が好きだった女の子と実際に付き合っている男がいる。

これらは全て、「叶えられなかった欲求」だが、これらを抱えたまま本当に幸せになれるだろうか。

︙まあ、答えは「No」だと思う。もちろん、色んなパターンがあるから一概には言えないが、概ね同意してくれると思う。

アドネス式Well-being理論における「欲求の解消」は、セリグマンが提唱したPERMA理論に当てはめると「ポジティブ感情」に該当する。が、ここをあえて欲求の解消にしているのには、しっかりと意味がある。

まず、”ポジティブ感情”というのは少々ぼんやりしすぎだとは思わないだろうか。そもそも、ポジティブ感情とはどういうときに得られるのだろうか。

セリグマンは主要なポジティブ感情として「喜び、愛、希望、感動、尊敬、安らぎ」などを定義している。

ただこれだと難しい。ポジティブ感情、と一言で言っても「喜び」だけですら色んなパターンがある。

  • たまたまコンビニに入って買ったアイスの当たりくじを引けた
  • ずっと連絡を取ってなかった地元の親友から連絡があった
  • ずっと行きたかったアーティストのライブのチケットにあたった
  • 長年努力してきたものがついに実を結んだ
  • 想いを寄せていた人と無事に結ばれた

など、嬉しい!だけでもたくさんある。(なんなら、何個かは他のポジティブ感情も内包してる)

けど、これだと理論として利用するのは難しいというのが僕の率直な感想だ。

やはり、実生活において使えなければ意味がない。

「ポジティブ感情を抱いていると幸福になります!」なんて、当たり前の話だ。

問題はどのようにすればポジティブ感情を、より感じることができるのかということだ。

そこで、わかりやすい定義として、「欲求の解消」に行き着いた。

ポジティブな感情を抱いているときというのは、その全てがなんらかの欲求を解消したからだ。ならば、ポジティブな感情を感じているかどうか?ではなく、「抱いている欲求を解消できているかどうか?」の方がより明快で単純な考え方だと僕は結論付けた。

では、なぜここに「関係性」がセットで入っているのかというと、”生理的欲求以外の欲求は関係性なしには抱かないから”だ。

少しだけ想像してみて欲しい。

もし世界にあなた1人しかいなかったら?どこに行っても、何をしててもあなた以外の人間がこの世界にいなければ?

ディストピア映画の設定みたいな話だが、少し考えてみて欲しい。世界に自分以外の人がいなかったら「生理的欲求」以外に何か人は抱くだろうか。

社会的欲求、承認欲求、成長欲求。

これらは全て周りに人がいて、自分以外の人がいて初めて抱くことができる欲求である。

世界に自分だけしかいなかったら、「必ず生き残りたい!!」という生理的欲求と自然界で生き延びたいという多少の安全欲求を抱くことはあっても、他の欲求はそうはいかない。。社会的欲求、肝心の”社会”がないのだから抱かない。承認欲求だって、承認してほしいと思う相手がそもそも存在しないのだから抱けない。成長欲求はそもそも世界に1人しかいないのに成長してどうするんだろう?という問題もある。

これは少し大袈裟な例だから、もう少し現実的な話に置き換えてみよう。

人間は、普段関わっている人や、コミュニティから強く影響を受ける生き物だ。全く同じ遺伝子を持っている一卵性双生児を全く違う国でそれぞれ育てたらどうなる?

全然違う人間になる。必ず。

それは何が影響しているかというと、やはり関わる人やコミュニティ。つまりは”関係性”だ。

例えば、大学生の時に自分と全く同じ大学生たちとしか関わらない生活を送っていたらどんな欲求を抱くだろうか。

  • Supremeの新作のパーカー、欲しいな
  • バイトいきたくねー
  • パチンコいきてえー
  • 就活だるいけど、就活失敗したやつだと思われたくないなぁ
  • え、あのゲームの新作出るの?やろうぜ!

とかだろうか。

では、全く同じ大学生の子が社会人5年目くらいのガッチガチの営業組織にジョインして、営業マンとして働き始めていたらどんな欲求を抱くだろうか。

大学生同士で絡んで、バイト代の使い方だけを考えていた時と明確に生活様式が変わる。社会人としてガツガツ働いている人を目の前でみて、話しているとそれだけでそもそも価値観というのは影響されてくるものだし、営業のインターンであれば頑張り次第で普通に就職する以上の報酬を得ることも可能だろう。

そうなってくると、「大学生らしい欲求」も少しずつ抱かなくなってきたりする。

  • 自分も成約率40%以上出せるようになりたいな
  • 先輩の〇〇さんみたいに月100万円とか稼げる営業マンになりたいな
  • 社長が付けてるあの高級時計、欲しいなぁ
  • この前連れてってもらった飲み会にきてた女の子かわいいな、付き合いたいな

全く同じ人間であっても、関係性が変わるだけでこのような変化が起きる。

よく、「身の回りの人5人の平均値があなた」なんて話を聞かないだろうか。あれは、誇張抜きで割と正しい。

自分が関わる人から、自分の欲求というのは作り上げられる。そして、人は欲求を抱いたものにしか本気を出すことはできないから、抱いた欲求によって良い方向に行くか、悪い方向に行くかも決まる。

そして、この2つ(欲求の解消と関係性)は1日にして成るようなものではなく、長期的に積み上げて初めて”成る”ものだ。

②意義性+没頭+成長実感

欲求の解消と関係性を埋めるには長期的な積み上げが必須であるということを書いた。

②の”意義性・没頭・成長実感”はその真逆で、”今この瞬間”から変えることができる。

欲求の解消や関係性を更に具体的なものとして挙げてみると、

  • ずっと食べたかった高級店の寿司を食べることができた
  • 憧れていたタワーマンションに住むことができた
  • 好きだったあの子と付き合うことができた
  • 欲しかった時計を買うことができた
  • ずっと目標にしていた数値を達成することができた
  • 素晴らしい仲間たちに囲まれて生活を送れるようになった
  • 嫌いな人と関わらなくていい環境を作り上げることができた

などが出てくると思う。もちろん、今挙げたものは全て”例”であって絶対的なものではないが、少なからずこれに近いものをみんな欲求として抱いているように感じる。

更に、関係性というのも長期的に積み上げる以外には作り上げる術はない。10年以上関係がある友人との友情は、1週間で作り上げられるものではないのだ。恋人だってそう、親との関係だってそう。

それまでその人と関わってきて作り上げてきた繋がりが、”それを素晴らしいもの”として昇華させるわけだから、どう足掻いても時間はかかる。3分前に出会って、意気投合した人と仲良くなったとして、それは”関係性”を満たせているか?と聞かれたら疑問と違和感が残るだろう。

だが、意義性・没頭・成長実感に感して言えば”今この場で”満たすことができる。

それぞれを簡単に説明すると、

【意義性】目の前のことが、自分の欲求の解消に繋がっているという確信。

【没頭】目の前のことに、完全に集中できている状態。

【成長実感】過去の自分と比べて、成長している実感。

このようになる。

すぐに満たすのは難しかった欲求の解消や、関係性と違いこれら3つの要素は比較的、今すぐ、簡単に満たすことができる。

どうすれば満たすことができるかって?

「あなたが大切にしている物事に対して、今この瞬間に正しい行動をする」

これだけだ。

もう少し掘り下げていこう。

意義性、没頭、成長実感。これら3つは「あなたが大切にしている物事に対して今この瞬間に何をしているか(Todo)」だけで決まる。

”大切にしている物事”とは、あなたが”特に重視している欲求”だと思ってくれて構わない。

欲求の中にも、優先順位はある。例えば、「お腹空いたからコンビニで肉まんでも買って食べたいな」という欲求と「必ずこの田舎町から東京へ飛び出し、成功者になるんだ!」という欲求が同じくらい強いわけはない。

あなたが今現在最も大切にしている欲求を、思い浮かべて欲しい。それが、”あなたが大切にしている物事”だ。

そして、その物事に対して”今この瞬間にやっていること”が繋がってさえいれば、それだけで自ずと上記の3つは埋まるだろう。

こういう話をすると、「いや、自分はみかみさんみたいに意識高い系じゃないんでそんな大切にしている物事なんてないです︙。」なんていう人もいるが、断言する。”大切にしている物事”がない人間なんて、いない。

受験期間の受験生であれば、「絶対志望校に受かってやる!」「周りの人から落ちこぼれだと思われたくないから絶対受験に受からないといけない!」「親に怒られたくない!絶対受験でしくじるわけにはいかない!」などの欲求を抱いているだろう。

熾烈な受験戦争の間は、受験生にとってこれらの欲求が「とても大切な物事」になっている。

サラリーマンになったとしても、それぞれがそれぞれの「大切な物事」を抱いていることだろう。

「必ず出世して、もっと良いマンションに住んでかわいい奥さんを捕まえるんだ!」「営業成績でトップを取るんだ!絶対取るんだ!!」「本業で消耗するのはバカらしいから早く副業を軌道に乗せて独立するんだ!そして自由な人生を勝ち取るんだ!」

人それぞれ方向性や欲求の大小はあれど、必ず「大切にしている物事」というのは目の前にある。

もっと言うと、あなたが生きている時点で「生きる」という大切な物事を持っている証明になるじゃないか。

ここまで説明すると、もしかしたらこう思うかもしれない。

「じゃあ、どんな欲求を抱いていたとしても、それに対して意義性と没頭と成長実感を感じていれば幸せなの?」

と。

答えは、「Yes」だ。

極端な例を挙げよう。

もし仮にあなたが、「人を殺してみたい」という凶悪な欲求を抱いていたとしよう。そして、実際に”今この瞬間”あなたが誰かの胸に包丁を突き立てていたら?

その瞬間、アドネス式Well-being理論の5項目はこのようになるだろう。

①欲求の解消:✔︎(殺したいという欲求が満たされている)

②関係性:?(一旦保留)

③意義性:✔︎(目的が明確。「この人を殺す」という意義がある)

④没頭:✔︎(今に完全に集中している)

⑤成長実感:✔︎(やり遂げている感覚がある)

つまり、その瞬間だけを切り取れば、5つのうち4つが満たされている。

だから、「その瞬間だけは最高にWell-beingである」というふうに言える。

だが、Well-beingという概念はそもそも長期的に持続する幸福を研究するという概念なので、それに繋げて考えるとこれは成り立たない。

Well-beingというスローガンの元、幸福を追求するためには必ず”持続可能”でなければならない。

目の前の人を殺して仕舞えばその人との関係性は今後一生築けなくなる。更には、殺人を犯してしまったら身の回りから人がどんどん減っていくだろう。司法で裁かれてしまったら自由を奪われ、あらゆる関係性を奪われる。

関係性が壊れてしまうと、欲求も抱けなくなる。なぜなら欲求とは関係性から生まれるものだからだ。

そして、とても重要なポイントがある。

「人間は本来、欲求の解消しかできない」というものだ。

人間の行動原理は全て「関係性から欲求が生まれる→その欲求を満たそうとする→実際に満たされる」という流れになっている。

だから、関係性がなければ生理的欲求以外の欲求を抱けなくなる。欲求がないとしたいことがなくなり、気力が沸かなくなり、やがては「ただ死んでいないだけ」のゾンビになる。

アドネス式Well-being理論の概要はこれで以上だ。

5つの要素(欲求の解消・関係性・意義性・没頭・成長実感)があり、それらは”今すぐ満たせるもの”と、”長期的に積み上げないと満たせないもの”の2つに分類される。

特に大切なのは、「欲求の解消しか人は本来できないんだ」ということ。

だから、あなたにはこの理論を胸に自分の幸せを追い求めて欲しい。

︙なんて言ったらこうツッコまれるのではないだろうか。

「いや、結局俺たちはそれを知ってどう生きれば良いんだよ!!」

︙と。

これでは、「実際に使えるものを」という僕自身の信念にも背く形になってしまう。ここまででアドネス式Well-being理論の説明は以上だが、この内容を踏まえた上で最後に、長期的かつ持続的に幸福になるためにどのように生きていくのが合理的なのか。

第1章の最後に僕がこれまでの人生を総括して出した答えを、あなたに伝えさせていただきたい。

起業はあなたが幸福で在れるための最適手段アドネス式Well-being理論を元に人間の行動原理を考えてみると、「抱いた欲求」が行動の大半を占めることを理解してくれたと思う。

ここで重要なのは、欲求には「良い欲求」と「悪い欲求」があるということだ。

欲求とはガソリンであるという話を第一章の前半部分で出した。つまり、僕たちがより活動的に、活発に活動するためには欲求は必要不可欠であるということだ。

したいこと、なりたいもの、行きたい場所などがない状態では、何かに向けて”意義性”を感じることも、”没頭”することも、”成長実感”を感じることもできない。

だから、僕たちは欲求というガソリンを切らさないように自分の思考を管理しなくてはいけない。

今でこそ、「全人類をWell-beingなギバーにする」というビジョン(僕が抱く最大の欲求)を胸に毎日朝から晩まで働いている僕だが、数年前はそうではなかった。

アドネス株式会社を立ち上げる前の、フリーランスのSNSマーケターだった時代。1日2時間以下の労働時間で月に300万円以上稼いでいた頃。

お金にも困らないし、時間もたくさんあるし、行動の自由もあった僕は堕落していた。どうしても叶えたい目標がなくなっていたのだ。この状態では、マズローの欲求5段階を全て満たしていてもWell-beingは実現できない。

Well-beingを実現するためには、「良い欲求」を抱き続ける自分になることが最も合理的だ。

そして、欲求とは「関係性」によって生まれる。ということは、「良い欲求=関係性を維持・増加させる欲求」となる。同時に、「悪い欲求=関係性を破壊する欲求」になる。

だからこそ、「欲求を解消する=関係性が守られる」という状態を作らなくてはいけない。

関係性が守られる欲求で最もシンプルかつ本質なのは、「人に価値提供をしたい」という欲求を抱くことだ。

よく、「ギバーになろう!」という自己啓発のメッセージがあるが、これは本当に大切なことだ。

ギバーになれば、当然ギブされた人が感謝をして周りに集まってきてくれる。より大きな価値提供(ギブ)をしていけば、より多くの人が集まってくれる。

多くの”関係性”はあなたに「新たな欲求」を与えてくれる。

それらは、

  • このプロジェクトを成功させたい!
  • 今一緒に働いてくれている人たちに良い思いをさせてあげたい!
  • 結婚してくれたこの子を幸せにしたい!
  • 顧客になってくれた人たちに満足してもらえるようなプロダクトを作り上げたい!

といった、「良い欲求」としてあなたの新たなガソリンとなってあなたのWell-beingを加速させてくれる。

そして、その新たな欲求は成長したあなたが抱く欲求なので必然的にハードルが高く、タフな欲求になることが多い。

想像してみて欲しい。

起業1年目の起業家が抱く「良い欲求」を。

きっと、「最初の1年をこのメンバーで黒字で走り切るんだ!」「今作っているサービスのローンチを成功させて、事業を軌道に乗せるんだ!」のようなものになるだろう。

次に、何兆円規模のお金を動かす大企業の社長であればどうだろう?

「1万人の社員の生活を守りながら、日本に新たなカルチャーを生み出してみせる!」「この製品を通して多くの人の生活を変える!」「この健康用品を普及させることで健康寿命を5年伸ばす!」

など、よりスケールが大きく、多くの人に価値提供をしなければ達成できない欲求を抱くことだろう。

「良い欲求」というのは解消すればするほど、関係性の輪がどんどん広がっていき、より大きな「良い欲求」を生み出す性質を持っているのだ。

こういった好循環を生み出すために最も最適な手段・職業は何か?

それが、「起業家」だ。

多くの顧客・社員・取引先・社会に対して価値提供を行わなければ、生き残ることさえ叶わない環境に身を置き、価値提供さえすることができていればどんどんその輪が拡大していく。

必然的に、”そう生きざるを得ない”職業が起業家なのだ。

僕は顧客にも、メンバーにもより多くの価値を提供したいと思っているから毎日頑張れるし、全力で走れる。これが、「欲しい時計がある」「欲しい車がある」「住みたい家がある」のような欲求だけだったらこうはいかない。

これらは全て、ある程度のところまで経済力を手にしたら叶ってしまうからだ。だが、ギバーであること、より多くのギブをすることを目標に人生を生きればゴールなんてない。

「起業はあなたが幸福で在れるための最適手段だ」

第一章で伝えたかった結論だ。そのためにマズローの欲求5段階説を通して欲求のメカニズムを説明し、幸福に関する様々な理論と、アドネス式Well-being理論を伝えてきた。

本書を手にとっているあなたは、一体なんのために起業をするのか?

最初は嘘でも、綺麗事でも良いから、ぜひ声に出して言ってみてほしい。

「自分ができることを最大限やって、より多くの人に価値を提供したいから起業するんだ。」

と。

その道の途中で今のあなたが抱いている欲求(良い生活がしたい!とか)はほぼ全て叶っているだろう。